2005-12-26-月 諸共にたゝまし物を陸奥の衣の關をよそにきくかな
■[趣味雑談]我流の翻訳とは 編集
■菅家文草
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117 夢阿滿
阿滿亡來夜不眠 偶眠夢遇涕漣漣 身長去夏餘三尺 齒立今春可七年
從事請知人子道 讀書諳誦帝京篇 藥治沉痛纔旬日 風引遊魂是九泉
尒後怨神兼怨佛 當初無地又無天 看吾兩膝多嘲弄 悼汝同胞共葬鮮
萊誕含珠悲老蚌 莊周委蛻泣寒蟬 那堪小妹呼名覓 難忍阿孃滅性憐
始謂微微腸暫續 何因急急痛如煎 桑孤戶上加蓬矢 竹馬籬頭著葛鞭
庭駐戲栽花舊種 壁殘學點字傍邊 每思言笑雖如在 希見起居惣惘然
到處須彌迷百億 生時世界暗三千 南無觀自在菩薩 擁護吾兒坐大連
讀書云云:初讀賓王古意篇。
悼汝云云:阿滿已後,小弟次么。
■日本霊異記
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廿一 沙門一目眼盲使讀金剛般若經得明眼縁下巻、第廿一、第廿二を校了しました。
沙門-長義者,諾樂右京藥師寺之僧也.寶龜三年之間,長義眼闇盲,逕五月許.日夜恥悲,屈請眾僧,三日三夜,讀誦金剛般若經.便目開明,如本平也.般若驗力,其大高哉.深信發願,無願不應故也.
廿二 重斤取人物又寫法華經以現得善惡報縁
他田舍人-蝦夷者,信濃國小縣郡跡目里人也.多富財寶,錢稻出舉.蝦夷奉寫法華經二遍,每遍設會,講讀既了.後復思議,猶不足心,更敬繕寫.唯未供養.寶龜四年癸丑夏四月下旬,蝦夷忽率.而死妻子量言:「丙年之人,故不燒失.丙年之人,質屬火性,遂不宜火葬.」點地作塚,殯以置之.死經七日,而甦告言:「使有四人,共副將往.廣野,次有卒坂.登於坂上,觀有大觀.於是峙視前路,多有數人,以箒掃路言:『奉寫法華經之人,從此路往,故我等掃淨.』即至待禮.前有深河.廣一町許.其河度椅.度椅者,渡橋也.有數人眾.其椅修理言:『奉寫法華經之人,從此椅度,故我修理.』到便待禮.到椅彼方,有黃金宮,其宮有王.椅本有三衢.一道廣平,一道草小生,一道以藪而塞.立蝦夷於其衢,一人入宮曰:『召.』王見之言:『此奉寫法華經之人.』即示於草小生道言:『從此道將來.』四人副至熱鐵柱,所令抱彼柱.編鐵熱燒,著背而押.歷三日夜,令抱銅柱.編銅甚熱,著背而押.又逕三日,極熱如爝.鐵銅雖熱,非熱非安.編鐵雖重,非重非輕.惡業所引,唯欲抱荷.合歷六日乃出.三僧問蝦夷言:『汝知此意不也?』答:『不知也.』僧復問言:『汝作何善?』答:『我奉寫法華經三部.唯一部未供養之也.』札出三枚,二枚金札,一枚鐵札.亦斤出二枝,一枝重倍稻一把,一枝輕減稻一把.于時,僧言:『校札之者,實如汝曰.敬寫三部法花大乘也.雖寫大乘,而作重罪.所以者何.汝用斤二,出舉之時,用於輕斤,徵納之日,用於重斤,故召汝耳.今者忽還.』還來,如前多人以箒掃道,作椅言:『奉寫法華經之人,從閻羅王宮還來之.』度彼椅畢,纔見甦還.」然而後戴所寫之經,增發信心,講讀供養.誠知,作善來福,作惡來災.善惡之報,終不朽失,並受二報.唯專作善,不可作惡矣.
■我流の翻訳とは
浦木裕(24)。日本語も中国語もなかなかの上手と言えません。
興味の一つは翻訳、というより、モノを自分が読む易いようにしたいところです。
こんな自己満足の私ですが、どうやって翻訳するんのでしょか。
先ず、翻訳するものは出版向でなければ、万人受けるような配慮が要りません。
私はどうやって翻訳するのを、これから紹介しましょう。
先ずは、古今和歌集の仮名序原文
やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。紀貫之が書いた古今集の原文です。ご覧とおり女手、つまり仮名で書いたものです。
このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。[あまのうきはしのしたにて、め神を神となりたまへる事をいへるうたなり。]しかあれども、世につたはることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり[したてるひめとは、あめわかみこのめなり、せうとの神のかたち、をかたににうつりて、かがやくをよめるえびす哥なるべし、これらはもじのかずもさだまらず、うたのやうにもあらぬことども也。]あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし。ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。[すさのをのみことは、あまてるおほむ神のこのかみ也、女とすみたまはむとて、いづものくにに宮づくりしたまふ時に、その所にやいろのくものたつを見てよみたまへる也、やくもたついづもやへがきつまごめにやへがきつくるそのやへがきを。]かくてぞ、花をめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶ心、ことばおほく、さまざまになりにける。とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて、年月をわたり、たかき山も、ふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたも、かくのごとくなるべし。
なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。[おほさざきのみかどの、なにはづにてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし。]あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて[かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。
そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき。
そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。
ふたつには、かぞへうた、
さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて
といへるなるべし。[これは、ただ事にいひて、ものにたとへなどもせぬもの也、このうたいかにいへるにかあらむ、その心えがたし。いつつにただことうたといへるなむ、これにはかなふべき。]
みつには、なずらへうた、
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
といへるなるべし。[これは、ものにもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この哥よくかなへりとも見えず。たらちめのおやのかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
よつには、たとへうた、
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも
といへるなるべし。[これは、よろづのくさ木、とりけだものにつけて、心を見するなり。このうたは、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへうたとおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。すまのあまのしほやくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この哥などやかなふべからむ。]
いつつには、ただことうた、
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。[これは、ことのととのほり、ただしきをいふ也。この哥の心、さらにかなはず、とめうたとやいふべからむ。山ざくらあくまでいろを見つる哉花ちるべくも風ふかぬよに。]
むつには、いはひうた、
このとのはむべもとみけりさき草のみつばよつばにとのづくりせり
《下略》
中国語、もとい漢文は、男手で真名(漢字)で書いたもので、
私がやってる翻訳の準備工作は「女手から男手へ」、と言うわけです。
今のどころ、私が手掛かりした原文が、こうなっています。
和歌は、人の心を種として、萬の辭とぞなれりける。世中に或る人、事、業、刺激物なれば、心に思ふ事を、見る物、聞く物につけて、言ひ出せる也。花に鳴く鶯、水に棲む蛙の聲を聞けば、息とし生ける者、孰れか歌を詠まざりける。力をも要れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の仲をも和らげ、彪き武士の心をも慰むるは、歌也。まだまだ途中ですから、未だ変更しなかった言葉も沢山有りますが。
此の歌、天地の開け始まりける時より、居できにけり。[天浮橋の下にて、女神男神と成り給える事を言へる歌也。]しかあれども、世に伝はる事は、久方の天にしては、下照姫に始まり[下照姫とは、天稚彥の妻也、兄の神の形、崗谷に移りて、輝くを詠める夷歌なるべし、此れらは文字の數も定まらず、歌の様にも有らぬ事ども也。]荒かねの土にては、素戔鳴尊よりぞ、興りける。千振る神代には、歌の文字も定まらず、素直にして、事の心わき難かりけらし。人世と成りて、素戔鳴尊よりぞ、三十一字は詠みける。[素戔鳴尊は、天照孁貴神の弟神也、女と住給はむとて、出雲國に宮造りし給ふ時に、その所に八色雲の立つを見て詠み給へる也、八雲立つ出雲八重垣妻篭めに八重垣作るその八重垣を。]斯くてぞ、花を愛で、鳥を羨み、霞を哀れび、露を悲しぶ心、辭多く、様様に成りにける。遠き所も、居で立つ足元より始まりて、年月を渡り、高き山も、麓の塵土より成りて、天雲たなびくまで追ひ昇れる如くに、此の歌も、斯くの如く成るべし。
難波津の歌は、帝の御始め也。[大鷦鷯帝の、難波津にて皇子と着こえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで、三年になりにければ、王仁と言ふ人の訝り思て、詠みて奉りける歌也、此の花は梅の花を言ふなるべし。]安積山の辭は、采女のたはぶれより詠みて[葛城の大君を陸奥へつかはしたりけるに、國の司、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、采女なりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、安積山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、この二歌は、歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の始めにもしける。
そもそも、歌の態、六つ也。唐の歌にも、斯くぞ有るべき。
その六種の一つには、風歌。大鷦鷯帝を、風へ奉れる歌、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
と言へるなるべし。
二つには、賦歌、
さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて
と言へるなるべし。[これは、ただ事に言ひて、ものにたとへなどもせぬもの也、このうたいかにいへるにかあらむ、その心えがたし。いつつにただことうたといへるなむ、これにはかなふべき。]
三つには、比歌、
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
と言へるなるべし。[これは、ものにもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この歌よくかなへりとも見えず。たらちめのおやのかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
四つには、興歌、
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも
と言へるなるべし。[これは、よろづのくさ木、とりけだものにつけて、心を見するなり。このうたは、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへうたとおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。すまのあまのしほやくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この哥などやかなふべからむ。]
五つには、雅歌、
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
と言へるなるべし。[これは、ことのととのほり、ただしきをいふ也。この哥の心、さらにかなはず、とめうたとやいふべからむ。山ざくらあくまでいろを見つる哉花ちるべくも風ふかぬよに。]
六つには、頌歌、
このとのはむべもとみけりさき草のみつばよつばにとのづくりせり
《下略》
要する、漢字で表記できるものを、できる限り漢字で表記します。
これから、元よりもっと男手らしき文章を、漢文に変更しますのは、我流の翻訳方。
ここで一番必要のは、語言力ではなく、経験と考察力と思います。
特に、真名序や記紀神話を知らず調べずに喩えどんな語言力が有っても、こういう翻訳方は向かないと思います。
但し、かの「真名序」もこの「仮名序」の翻訳だけど、
略した物は少なくないから察すると、無くなったところは本来、漢文に向かないと思われます。
こういうモノを漢文に翻訳することはもっとも不適切かも知れませんが、へたれながら翻訳してみます。
■クリスマスと日本人の宗教感(西野神社社務日誌より)
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20051224
クリスマスがケーキで祝い、除夕がお寺の鐘声を聞きに行って、そして新年は神社で初詣にいく..
という話はよく気からましたが、神社の立場から見るとどうなんでしょう。
>栃木県の日光に鎮座する、世界遺産にも指定されているある有名な神社では、
>毎年、崇敬者のケーキ職人からクリスマスケーキの奉納を受けているそうです。
いや、それはビックリしました。^^;
2005-12-25-日 君すまばとはましものを津の國の生田の杜の秋のはつ風
■[趣味雑談]日本国史略の仏教観 編集
クリスマスというかなんというか、研究室の特許権出願書の準備稿を読んで過ごした一日でした。
■菅家文草
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116 水中月
滿足寒蟾落水心 非空非有兩難尋 潛行且破雲千里 徹底終無影陸沉
圓似江波初鑄鏡 映如沙岸半披金 人皆俯察雖清淨 唯恨低頭夜漏深
■日本霊異記
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十九 產生肉團之作女子修善化人縁下巻、第十九、第二十を校了しました。
肥後國八代郡豐服鄉人,豐服廣公之妻懷妊,寶龜二年辛亥冬十一月十五日寅時,產生一肉團.其姿如卵.夫妻謂為非祥,入笥以藏置之山石中.逕七日而往見之,肉團殼開,生女子焉.父母取之,更哺乳養.見聞人,合國無不奇.經八箇月,身俄長大,頭頸成合,異人無顊.身長三尺五寸.生知利口,自然聰明.七歲以前,轉讀法華八十華嚴.默然不逗.終樂出家,剃除頭髮,著袈裟,修善化人.無人不信.其音多出,聞人為哀.其體異人,無膣無嫁.膣,底本作門中也字.唯出尿有竇.愚俗呰之,號曰-猴聖.時託磨郡之國分寺僧,又豐前國宇佐郡之矢羽田大神寺僧二人,嫌彼尼言:「汝是外道.」啁呰嬲之.神人自空降,以桙將棠僧.僧恐叫終死也.大安寺僧-戒明大德,任彼筑紫國府大國師之時,寶龜七八箇年比頃,肥前國佐賀郡大領-正七位上-佐賀君-兒公,設安居會.請戒明法師令,講八十華嚴之時,彼尼不闕,坐眾中聽.講師見之,呵嘖之言:「何尼濫交?」尼答之言:「佛平等大悲,故為一切眾生,流布正教.何故別制我?」因舉偈問之,講師不得偈通.諸高名智者怪之,一向問試.尼終不屈.乃知聖化,而更立名號-舍利菩薩.道俗歸敬,而為化主.昔佛在世時,舍衛城須達長老之女-蘇曼,所生卵十枚,開成十男,出家皆得羅漢果.迦毘羅衛城長老之妻,懷妊生一肉團,到七日頭,肉團開敷,有百童子.一時出家,而百人俱得阿羅漢果.我聖朝所彈壓之土,有是善類.斯亦奇異之事矣.
二十 誹奉寫法華經女人過失以現口喎斜報縁
粟國名方郡埴村,在一女人.忌部首.字曰-多夜須子.白壁天皇代,是女奉寫法華經於麻殖菀山寺.于時,麻殖郡人-忌部連-板屋,舉顯彼女人之過失,以誹謗故,即口喎斜,面戾於後,而終不直.法華經云:「謗受持此經者,諸根闇鈍,矬陋攣躄,盲聾背傴.」又云:「見受持是經者,出其過惡,若實若不實,此人現世得白癩病.」者,其斯謂也矣.當慎信心.應讚彼德,不謗其缺.蒙大災故矣.
■日本国史略・桓武天皇
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何日前から言いたいのですが、なかなか時間が...(実は今も暇じゃない状態だけど)
日本国史略は歴史書で有りながら、作者が色々な事件に対しての評論も收録しております。
例えば、桓武天皇紀が、以下のコメントがあります。
二年,敕曰:「京畿定額諸寺,其數有限.既禁私立道場.比來,所司寛縱,曾不糺察.如經年代,無地不寺.宜嚴加禁斷.松苗曰:佛法東渡以來,世創寺塔.至前朝建國分寺,其弊極矣.韓子所謂:『人其人,火其書,廬其居.所謂,令僧還俗,焚滅經書,沒寺為居也.』者,勢既不易為也.帝立此禁,寔權宜良方也.獨怪未幾,延暦七年,僧-最澄,創寺於比叡山,建根本中堂.安藥師寺像,以稱濟世醫國.其後子院衆多,遂及三千.鴨水東北,無地不寺.民居,僅夾堂塔之間.而山徒暴虐,動起甲兵.譬由庸醫,口稱仁術,毎損人命.遂至使後世天子,有:『鴨水之漲與山僧之暴,朕亦無奈之.何之嘆.』嗚呼!自佛法入我邦以降,蠹國害政,未有如是甚者也.惜哉當時,處此良方,徒置不用,而使病勢益劇.茍有志濟世者,安得不長大息乎.後經七百餘歳,平公-信長,一怒,火攻之.天下大患,始得痊癒矣.治療之功,卻出自武將.豈謂之下策劫法乎.」
是歳,僧-最澄,創比叡山中堂.安藥師像.以鎮新都鬼門.松苗曰:『風俗通』曰:「上古時有神荼、鬱壘昆弟二人,性能執鬼.度朔山,上有桃樹,盤屈三千里.其卑枝向東北,曰-鬼門.二人於樹下,常簡閲百鬼.鬼無道理者.神荼與鬱壘持以葦索,執以飼虎.
」是故,縣官常以臘祭.又飾桃人,垂葦索畫虎於門以禦凶.又按唐土南方有鬼門關,易與之別也.松苗偶閲『神仙通鑑』,卷三醉蟠桃祝融奏樂曲條中有言:「木公.一名-鬱壘,一名-神荼.兄弟二人,惟能執鬼.山有二門.西南曰-神門,神荼守之.凡有邪神入山偸桃,以木劍斫其頂,桃枝貫其腮,投海中,與毒龍為餌.東北曰-鬼門,守以鬱壘.若有貪饕之鬼上樹殘食,即以葦索縛之,射以桃弧,投山坳,與猛虎食之.倶以十壯士為副,夫風俗通為書.」其來雖古,謾記世俗所傳,非有確據矣.『神仙通鑑』所載,固出筆端遊戲.今附記之者,以證怪妄越甚也.要之鬼門説,經傳子史無所概見.佛氏既曰:「本來無東西,何處有南北.」彼徒亦當不拘泥方位之説.然則妄誕不經之説耳.
十八年,從三位-和氣-清麻呂,薨.清,為人識明志忠.嘗在孝謙之朝,使于宇佐,奉太神敕而折道鏡之勢.及遇赦還京,任豐前守,又為美作、備前兩國造.及桓武帝為攝津大夫,奏請攝河之界,鑿川築堤,西通海,民蒙其利.又兼民部大輔、中宮大夫,皆稱其職.清,素明古事,撰『民部省例』二十卷.桓武帝賜以田,傳之子孫.薨年六十七.贈正二位.後世宇佐奉幣使,毎命和氣氏,蓋顯大功於無窮也.松苗曰:和氣氏不為黨邪以求茍免,蓋知名義至重,鬼神難欺也.自以為及獲罪流竄榮多矣.當時若使道鏡竊弄神器,雖居一朝,皇朝千古之辱也.而和氣氏見危授命,其力回天,為萬代所瞻仰.比之唐張説,關係更重.嗚呼偉矣.先是,有大中臣-清麻呂者,為右大臣.以其名同,世人或誤以為和氣氏.蓋以其功,宜至台鼎也.圖贊曰:皇統將移凡鄙,稱神語駭賊耳.嘻直哉,何畏死.國無道,亦如矢.
是歳,遣使于唐.大使-葛野-麻呂,副使-石川-道益,判官-菅原-清公,録事-朝野-鹿取.四人皆有才學.僧-最澄、空海等,陪從而行.以學釋教.最澄,明年隨大使歸.空海,二十五年歸.松苗弟-西尾-惟苞,字叔茂.好學早歿.以其居臨真如堂,時或閲佛書.嘗曰:「俗傳,僧-空海,始唱本地垂跡、兩部習合之説.」余謂:「是奸僧所始,恐非空海也.」所謂本地,謂前身在彼.垂跡,謂後身在此.此兩部,謂神佛.習合,謂歸之同一體也.某太神本地即彌陀如來,勢至菩薩垂跡,即某太神之類.蓋傚清淨法行經及家墓因縁經.所謂閻浮堤中,有振且國.我遣三聖,在中化導人民.光淨菩薩,彼稱孔子.迦葉菩薩,彼稱老子.月光菩薩,彼稱顏回也.嗚呼!僧徒無忌憚!假託三明六通,輙説前身後身,以圖其利.既引儒入佛,又引皇國神明,以為釋氏末流.其詐固不待辨矣.其罪固不容誅矣.余固曰:「是説出自奸僧,恐非空海也.」若使空海實唱是説,則神明之大罪人耳,豈謂之高僧乎!
贊曰:自神祖都於橿原,列聖遷徙,不常厥邑.蓋亦從衆所欲也.元明遷自藤原,定鼎平城.故其告諭王公,有殷宗五遷、周后三定之詔.聖武乘豐富,好侈大.或徙恭仁,或營難波紫香樂.然終不欲拂物情,還都平城,以迄光仁.衆志所嚮,略可賭矣.桓武帝英略,蓋世,恢量包荒.尋墜緒,舉廢典.祀於圓丘,以展敬天報之誠.征伐蝦夷,大奮干戈之威.蓋蝦夷之為種類,暴戾恣睢.急之則雲散,緩之則麕集.不有大懲,禍將不輟.帝善擇將帥,責以成功.斬獲酋長,獷俗讋服.恢弘祖宗之業,有光前烈.乃相攸奠居,遷都山城,新制平安之號,肇經國之洪猷.龜筮皆從,神人胥慶.據龍蟠虎踞之勢,建萬世不易之基.嗚呼,盛矣哉!然觀藤原-緒嗣之諫:「方今所苦.在兵與土木.」則征夷遷都,亦非無勞.而帝度德量力,為一勞永逸之舉,以措天下於泰山之安.茍非帝之英武明斷,則鮮能及之矣.仏教に対して、実ははっきりで攻撃性な発言であった。但し、それは作者・巖垣松苗氏が杜撰した訳でもない、大体は正しな論評である。私が同時電子テキスト化する『日本霊異記』は、『日本国史略』と全く正反対な立場にある書物という実感があります。
蘇我馬子の天皇暗殺や称徳女帝の道鏡事件など、日本における仏教の問題は少ないではありません。但し、それは仏教全体がこういう問題を持つわけでもない。でも、『日本国史略』の批判姿勢はその一部の問題を仏教全体の問題、あるいは仏教全体がこうなる可能性は高いとして語られている。
正直、私は『日本霊異記』が余り好きではない。かの本の宗教誘の意図が強すぎるから。例えば、「例えばあの人が本当に悪いだけど、仏を信じるなら罪にならない。」までは少ないのですが、「例えばあの人が本当に良い人だけど、仏を信じないから罰が落ちっても文句ないだろう!」はような説話は幾らでもあります。
そういう場合、『日本国史略』がああいう話を「妖僧の邪説だ!」と批判して(但し、国史略では歴史上の事件だけを論評する、直接の霊異記批判がありません。)、言うまでもない『日本霊異記』との相性は凄く悪いと思います。(私も相性が悪いだけど。)前にも言うように、その論評は大体正しなモノでした。でも、仏教全体が絶対そうなるを言わなくても、「聖武・孝謙朝の弊害(この二柱の天皇方は仏を深く好んでいるから。)を改正する。*1」と聖武・孝謙朝の弊害の原因は「仏好きからこうなる。」に提示している。読者をこういう思考を導いている意図が込めている。
何でそこまで仏教に対して攻撃の態度を持つのか、それは『日本国史略』は皇国史観によって書かれたものだから。歴史の人物・事件を、天皇を中心とする国体の発展・展開と取られる、天皇に従順か反逆的かの尺度で評価するように書いたのである。それは北畠親房の『神皇正統記』から、尊王思想を鼓吹するように視点を置く、『日本外史』と共に尊王攘夷運動の志士かそれらの思想を認同する者の愛読書物ではないかと思ってます。なお、こういう史観は明治から終戦まで基本的歴史観として生きていた、明治年間成立の『日本国史略』は正しくその時代の感性を受継ぐしているのではないか。
■追申(12/25、AM:3:00)
何気なく『古今和歌集』の仮名序を中国語へ翻訳したくなります。
断然寝るほうがいいこの時間が、何故が仮名序の原文を整理しています。
■破魔矢 奉製作業、大忙し 三重・猿田彦神社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051223-00000015-maip-soci.view-000
■新年の縁起物準備に巫女さん大忙し/秋田市・太平山三吉神社
http://hyo-hen.web.infoseek.co.jp/sakigake-2005-12-24.jpg
■日枝神社で巫女の認証式
http://www2.knb.ne.jp/news/20051223_5615.htm
■新年を迎える準備佳境に 六所神社
http://www.townnews.co.jp/020area_page/02_fri/02_oiso/2005_4/12_23/oiso_top2.html
以上、君子ハ豹変ス経由。
*1:主除聖武・孝謙二朝之習弊《二帝深好佛》、使改歸正。
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