2005-12-24-土 思兼ね今日たて初むる錦木の千束もまたで逢ふ由もがな
■[趣味雑談]未来の白地図、注文忘れました。 編集
■菅家文草
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115 勸野營住學會
李孔通家道不分 幾因才藝早知聞 菅尚書子寧非我 野相公孫獨有君
龍去九霄曾宿水 鶴飛千里未離雲 縱無閉戶垂帷意 當會文宣享苾芬
相公云云:謂先相公。
當會云云:學中謂,時時來者,為釋奠學生。故云。
■日本霊異記
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十七 未作畢捻埴像生呻音示奇表縁下巻、第十七、第十八を校了しました。
沙彌-信行者,紀伊國那賀郡彌氣里人.俗姓大伴連祖是也.捨俗自度,剃除鬢髮,著福田衣,求福行因.其里有一道場.號曰-彌氣山室堂.其村人等,造私之堂,故以為字.法名曰-慈氏禪定堂者.未作畢有捻埴像二體.彌勒菩薩之脅士也.臂手折落,居於鐘堂.檀越量曰:「斯像隱藏乎山淨處.」信行沙彌,常住其堂,打鐘為宗.見像未畢,猶以為患,落臂之者,以糸縛副,撫於像頂,每願之言:「當有聖人令得因緣.」淹逕數年,白壁天皇代寶龜二年辛亥秋七月中旬,從夜半有呻聲言:「痛哉,痛哉.」其音細小,如女人音,而長引呻.信行初思越山之人得頓病宿,即起巡坊,覓無病人.怪之嘿然.彼病呻音,累夜不息.不得乎忍.起窺見之,呻有鐘堂.實知,彼像.信行見之,一怪一悲.時左京元興寺沙門-豐慶,常住其堂.驚彼沙門,叩室戶白:「咄大法師,起應聞之矣.」具述呻狀.於玆,豐慶與信行,大怪大悲.率引知識,奉捻造畢.設會供養.今安置彌氣堂,以居乎彌勒脅士之菩薩是也.左大妙聲菩薩,右法音輪菩薩.誠知,願無不得,無願不果者,其斯謂之也..斯亦奇表之事也.
十八 奉寫法華經經師為邪婬以現得惡死報縁
丹治比經師者,河內國丹治比郡人.姓丹治比,故以為字.其郡部內,有一道場.號曰-野中堂.有發願人,以寶龜二年辛亥夏六月,請其經師於其堂,奉寫法華經.女眾參集,以淨水加經之御墨.于時,未申之間,段雲雨降.避雨入堂,堂裏狹少,故經師與女眾居同處.爰經師婬心熾發,踞於孃脊.舉裳而婚.隨屌入膣,攜手俱死.屌,原門內牛字.膣,原門內也字.各指男女之性器也.唯女口漚嚙齧出而死.晰知,護法刑罰.愛欲之火,雖燋身心,而由婬心,不為穢行.愚人所貪,如蛾投火.所以律云:「弱眷自婬面門.」復涅槃經云:「知五欲法,無有歡樂.不得暫停.如犬齧枯骨,無飽厭期.」者,其斯謂也矣.
■日本国史略・桓武天皇
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■ミノフスキークラブ
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私がお薦めるガンダム関連ブックの数々。
■(偽)ドラえもん最終話
http://csx.jp/~vaiosqare/doraemon/01.html
なんで今更...と思いました。
日本の場合は詳しく知りませんが、台湾では何年前ではこの(偽)最終話を流布しています。
もちろん、それは公式のものではない。公式の最終話は存在しません。
何故なら、ドラえもんの原作者は新の大長編を描いている途中、亡くなりましたから。
シリーズ新作を描いた途中、事実上最終話の存在は勿論有り得ないこと。
但し、色々(偽)最終話が散佈していても、この(偽)最終話はまさに最高な感じが持ちました。
何年前、初めて観た当時も、確かに感動していました。
パロディとして、実はドンでもない良い出来たと思います。
2005-12-23-金 古里は春めきにけりみ吉野の御垣が原は霞こめたり
■[趣味雑談]むかついてます。 編集
学校にはある事件が有ったため、今はむかついてます。ある「世界遺産レベル程の良い人」の教授が生贄になりました、ということ。
http://tw.news.yahoo.com/051222/195/2ogxt.html
http://tw.news.yahoo.com/051222/39/2oh1f.html
敝校の校長選挙が、ああいう修羅場になりました。
新聞の写真で加害人に見えるような方は、実は唯の正当防衛でしか有りませんが、
どうやら新聞で「不正」か「暴力行使」として仕上げられました。
本当の状況は、相手がマスコミを呼び寄って、拡声器まで用意した。会場を擾乱する気が言うまでもない。
そういう場合、主任秘書である呉教授は「のお帰りください」しか対応方がないのに、
相手は逆に一方的に暴力をふるようになって、呉教授は防衛しただけでこのような形に仕上げられました。
写真だけを観れば凄い形象になったけど、
事件のビデオを見れば呉教授がなにもしてない事は一目で判ると思います。
特に、呉教授が全然主動的に手を出すことがありません。
その後、呉教授は「此れが全て私の責任だ」と、主任秘書の辞職願を提出しました。
私も含めて、呉教授を知る人は「あの人限り、暴力行使は有り得ない。」と思うだろう。
優しくて、穏重で、どんでもない程な努力家でいい人。
例えば、一周三時間の授業は「これだけは足りない。」と、無給で自願に四時間に伸びること。
また、授業用の講義も自分で良く整理して、教科書より詳しいものを学生に挙げること。
また、携帯番号まで学生に知らさせて「何が質問があればいつでもどうぞ。」と仰ったこと。
また、学期試験の前は絶対、自分の研究室に居て、徹夜にも構わず学生の質問を解けること。
これほど学生思いの教授は他ならないと思います。
但し、彼の能力が強いが、権力に迎合することとは無縁な存在でもあります。
実は今の校長は余り好きじゃない、今度の校長選挙も不正が有ると思います。
ですが、せめて呉教授だけは悪いことが何もしてないのは本当であります。
今、主任秘書の辞職願を提出しましたが、それでもよいと思います。
何故なら、彼はこのような行政体系とは全く似合わない、人良すぎで今度みたいに良く負け組みになるでしょう。
呉教授の位階は未だ「助教授*1」で「教授」ではない、今度の事件が昇等の邪魔にならないように...
■菅家文草
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114 小廊新成,聊以題壁
數步新廊壁也釘 青烟竹下白沙庭 北偏小戶藏書閣 東向疏窗望月庭
行路馬蹄斜側見 到門人語近前聽 自嫌塵客時言矣 促請山僧夜誦經
分合終年開甕牖 猶勝竟日掩柴扄 掃除一室雖知足 未免衝泥又載星
■日本霊異記
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十五 擊沙彌乞食以現得惡死報縁下巻、第十五、第十六を校了しました。
犬養宿禰-真老者,居住諾樂京活目陵北之佐岐村也.天骨邪見,厭惡乞者.當帝姬阿倍天皇之代,有一沙彌.就真老之門而乞食.真老不施乞物,返奪袈裟,諸見逼惱言:「汝曷僧也.」乞者答曰:「我是自度.」真老亦拍逐之,沙彌大恨而去.於其日夕,煮鯉寒凝.明日辰時起,居朝床,彼鯉含口,取酒將飲.自口黑血返吐傾臥.如幻絕氣,如寐命終.諒知,邪見切身之利劍.瞋心是招禍之疾鬼.慳貪受餓鬼之苦因.多欲障慈施之猛藪.唯見來乞者,可生憐愍,和顏悅色,法施財施.所以丈夫論云:「慳心多者,雖是泥土,重於金玉.悲心多者,雖施金玉,輕於草木.見乞人時,不忍言無,悲泣墮淚云云.」
十六 女人濫嫁飢子乳故得現報縁
橫江臣成刀自女,越前國加賀郡人也.天骨婬沃,濫嫁為宗.未盡丁齡,死淹歷年.紀伊國名草郡能應里之人,寂林法師,離之國家,經之他國,修法求道,而至加賀郡畝田村.逕年止住.奈良宮御宇大八嶋國白壁天皇世,光仁朝.寶龜元年庚戌冬十二月廿三日之夜夢見,從大和國鵈鵤聖德王宮前之路,指東而行.其路如鏡,廣一町許.直如墨繩.邊木草立.林佇看之,於草中有,大快肥女.裸衣而踞.兩乳脹大,如灶戶垂.自乳流膿.長跪以手押膝,臨之病乳而言:「痛乳乎?」呻吟苦病.林問:「汝何女?」答:「我有越前國加賀郡大野鄉畝田村之橫江臣成人之母也我齡丁時,濫嫁邪婬,幼稚子棄,與壯夫俱寐.逕之多日,而子乳飢.唯子之中,成人甚飢.先由幼子飢乳之罪,故今受乳脹病之報.」問:「何脫此罪?」答:「成人知之,我罪免也.」林自夢驚醒,獨心怪思,巡彼里訊.於是有人答言:「當余是也.」林述於夢狀.成人聞之言:「我稚時離母不知.唯有我姊,能知事狀.」問姊之時,答:「實如語.我等母公,面姿姝妙,為男愛欲,濫嫁,惜乳不賜子乳.」爰諸子悲言:「我不思怨.何慈母君,受是苦罪.」造佛寫經,贖母之罪.法事已訖後,悟夢曰:「今我罪免之矣.」誠知,母兩甘乳,寔雖恩深,惜不哺育,返成殃罪.豈不令飲哉.
■聖徳太子伝暦
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二、敏達天皇 諱,渟名倉太玉敷天皇.欽明天皇之太子也,橘豐日尊兄.磐余譯田宮.治十四年.
元年,壬辰,春正月,一日,妃巡宮中.到于廊下,不覺有產.女孺驚抱,疾入寢殿.妃亦無恙,安宿幄內.皇子驚,詢侍者,會庭.乎有赤黃光明,至西方,照耀殿內,良久而止.敏達天皇,猶居東宮.乍聞此異,命駕而問之.及殿戶,復有照光.天皇大異之.敕群臣曰:「此兒,後必有異於世.」即命有司,定大湯坐、若湯坐,而沐浴抱奉.天皇以褓受之,授皇后,皇后授父皇子,皇子亦授妃.妃披懷受,身體太香.
三日之夕,天皇設宴,賜物群臣.七日,皇后設宴,賜物後宮.大臣以下相次獻饌,稱之養產.定嬭母三人,並採臣、連等女.夏四月後,太子能言能語,知人舉動.不妄啼泣,靈異有貴相.
二年,癸巳,春二月,始十五日平旦.合掌稽首東向,稱南無佛而再拜.不因人教,嬭母常禁,太子舉目睇,不依所制.七歲之後,此態永止焉.
三年,甲午,春三月,有桃華宴之旦.皇子與妃,率太子,遊於後園.太子在抱近皇子.皇子問曰:「吾兒何謂?樂桃花乎?樂松葉乎?」太子答曰:「松葉為賞.」皇子問之:「何以?」太子答之:「桃華,一旦之詠物.而松葉,萬年之壽木也.故為可賞之.」皇子撫頂,及抱之.其身太香,非世之所嗅.太子仰看皇子曰:「兒之入於御手也,如登百丈之巖,浮千尺之浪,太畏太危.」皇子大笑焉.
四年,乙未,春正月,皇子第中,會諸少年王子.有闘叫之聲.皇子聞之,設笞追召.諸王子等,皆悚逃竄.而太子,脫衣獨進.皇子問之:「兄弟不合,諸少兒等,輙以口闘.今欲笞誨.皆悉隱避.而汝何獨進乎?」太子合掌,對皇子并妃,低首啟曰:「不得立階於天而昇,不得穿穴於地而隱.故自進受笞.」皇子并妃大悅曰:「汝之岐嶷,非只今日.」妃披懷而抱.其身太香,香氣亦非常.妃乃尚加寵愛.
五年,丙申,春三月,天皇立豐御食炊屋姬尊為皇后.太子此日在嬭母懷,侍皇后前,群臣入拜.太子語嬭母曰:「大臣奉拜之前,放吾於膝.大臣及入也,太子於膝.太子自顧其身,調定衣裳,逡巡徐步,立大臣前,北面再拜.時年五歲.起伏之儀,有如成人.天皇、皇后,太加寵異.嬭母問太子曰:「吾皇子何以與群臣拜皇后乎?」太子密謂曰:「非汝之所知.是焉吾國天皇也.」遂如期言.
秋八月,太子謂嬭母曰:「小子須習文書,何不持來筆墨耶?」嬭母諮皇子,即賜文筆書法.日別習書數千字.三年以後,學王右君書,既得骨體,流筆如龍.時人大異.
六年,丁酉,冬十月,遣百濟國大別王,將經論並律師、禪師、比丘尼等還來.由此奏狀.太子侍天皇床下,奏曰:「兒情欲見持來經論。」天皇問之:「何由?」太子奏曰:「兒昔在漢,往衡山.歷數十身,修行佛道.佛之垂教,非有非無.諸善奉行,諸惡莫作.故今欲見百濟所獻佛經、菩薩諸論.」天皇太奇問之:「汝年少六歲,常在朕前.何日在漢乎?」太子奏曰:「兒之前身.意有所慮.」天皇拍手,大異之.所聞群臣,亦大鳴舌拍手而奇之.
七年,戊戌,百濟經論數百卷持上來奏.
春二月,太子燒香披見.日別一、二卷.至冬一遍了.又奏曰:「月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日,是為六齋.此日梵天、帝釋,降見國政.故禁殺生.是仁之基也.仁與聖,其心近矣.」天皇大悅,下敕天下:「此日令禁殺生之事.」
八年,己亥,冬十月,新羅國贈獻佛像.太子令皇子奏曰:「西國真人釋迦牟尼佛遺像也.末世尊之,則消禍蒙福.蔑之,則招災縮壽.兒讀佛經, 其旨微妙.望也崇貴佛像,如說修行.」天皇大悅,安置供養.
九年,庚子,夏六月,有人奏曰:「有土師連-八嶋,唱歌絕世.夜有人來,相和爭歌,音聲非常.八嶋異之,追尋至住吉濱.天曉入海.」者.太子侍側,奏曰:「是熒惑星也.」天皇大驚,問之:「何謂?」太子答曰:「天有五星,主五行、象五色.歲星色青,主東,是木.熒惑色赤,主南,是火.此星降化,為人遊童子間.好作謠歌,歌未然事.蓋是星歟.」天皇太喜.
十年,辛丑,春二月,蝦夷數千,寇於邊境.天皇召群臣,議爭討之事.於時太子侍側,竦耳左右,聞群臣論.天皇近召太子,詔曰:「汝意如何?」太子奏曰:「少兒何足議國家大事.然今群臣所議.皆滅眾生之事也.兒意以為,先召魁帥,重加教諭,取其重盟,放還本路.加賜重祿,奪其貪性.」天皇大悅,即敕群臣,召魁帥-綾糟等,詔曰:「唯儞蝦夷者,大足彥天皇之世,景行朝.合殺者斬,合赦者放.朕今遵彼前例,欲誅元惡.」於是,綾糟等怖懼,乃到泊瀨川,面三諸山而盟曰:「臣等蝦夷,自今以後,子子孫孫,用清明心,侍奉天闕.臣等若違盟者,天地諸神及天皇靈,絕滅臣種矣!」自此以後,時久而不犯邊.
十一年,壬寅,春二月,太子率童子三十六人,遊後園中.皇子修威,左侍二人,右侍二人,左立四人,右立四人.以十四人,庭前兩陣,共舉其音,令申各志.諸童子等,或以戲浪,或以私實,一共舉音,或長或短.太子居榻,仰首而聞,待了而答.一一反覆,句無一墮,復了即達,各以其志.如是數日,童子私歸,各告父母.父母私或作難辭而令語,太子亦能辨答,非凡心所及.皇子微行,稍聞其辭,多有不解.問妃曰:「吾兒殆非聖人耶?」又童子之中,力不能勝.弓石之戲,儕不能比.輕舉如雲氣,在數十丈虛中.疾走如雷電,在前乎焉在後.身躰之香,亦非尋常.沐浴之後,皇子及妃,天皇、皇后,并後宮貴人等抱之時,妙香發起.一著人衣,數月不滅.佛陀加護故云云.
十二年,癸卯,秋七月,百濟賢者-葦北達率-日羅,隨我朝使-吉備海部-羽嶋來朝.此人勇而有計,身有光明,如火焰.天皇詔,遣阿倍臣-目、物部-贄子大連、大伴-糟手子連等,問國政於日羅.太子聞日羅有異相者,奏天皇曰:「兒望,隨使臣等,往難波館,視彼為人.」天皇不許.太子密諮皇子,御微服,從諸童子,入館而見.日羅在床,望四觀者.指太子曰:「那童子也,是神人矣.」於時,太子服麁布衣,垢面戴繩,與馬飼兒,連肩而居.日羅遣人指引.太子驚去.日羅遙拜.脫履而走.諸大夫等其之,出門而見.即知太子.太子隱坐,易衣而出.日羅迎,兩段再拜.大夫亦驚,謝罪再拜,修儀而入.太子辭讓,直入日羅之房.日羅跪地,而合掌白曰:「敬禮救世觀世音,傳燈東方粟散王云云.」人不得聞.太子修容,打磬而謝.日羅大放身光,如火熾.太子眉間放光,如日輝.須臾即止焉.太子謂日羅曰:「子之命盡,可惜被害.聖人猶亦不免,吾亦如何.」清談終夕,人不得解.明日,太子還宮.
十二月,晦夕,新羅人殺日羅.更蘇生曰:「此是我驅使奴等所為,非新羅也.」言畢而死.太子乍聞,語左右曰:「日羅聖人也.兒昔在漢,彼為弟子.常拜日天,故放光明.冤仇不離,斷命而賽.捨生之後,必生上天.」者.
十三年,甲辰,秋九月,彌勒石像一軀,百濟將來.蘇我大臣勸請其佛像,並於播磨國覔得狛僧-惠便之還俗,乃以為師,更度三尼.營佛殿於宅東,安置彌勒石像.屈請三尼,設大會齋,亦佛殿構立石川宅,每到敬禮.此時,司馬-達等,得佛舍利於齋食上.由是蘇我大臣並達等,深信佛法,修行不懈也.於是,大子時時潛行大臣之寺,散花供養.密命大臣曰:「吾昔修行,歷數十身.萬分之一,未得濟救.君之始貴,功德難測.譬如虛空,不可思量.吾雖幼稚,願以紹容,與君為緣.為善知識,傳如來教,建正幢蓋.」大臣謹奉,不敢墮緩焉.
十四年,乙巳,春二月,蘇我大臣起塔於大野嶽北,大設齋會.太子備儀,臨而觀之.比及立要柱,合掌三拜,謂左右曰:「是佛舍利之器也.不置舍利,則不得為塔.釋迦如來滅度之後,碎骨舍利,應感而出.是如來加于外家,聖人豈遠乎.大臣不安舍利,此塔必仆.」大臣聞之,念感舍利.三七日後,齋食之上,得舍利一枚.大如胡麻.其色紅白,紫光四周.浮水不沉,穿半而居.投舍利於水,隨心所願,浮沉於水.鍜擊不碎,彌吐妙輝.馬子宿禰,試以舍利.置鐵鑕中,振鐵鎚打.其鑕與鎚,悉被摧壞.而舍利不摧毀.大臣納瑠璃壺,旦夕禮拜.舍利常懸壺內,或為二三,或為五六,無有定數.每夕吐光.太子臨而禮拜,謂大臣曰:「是為真形骨舍利.」大臣設會,安塔要柱下.此時,大臣有疾.卜祟,父時所祭神之心.即以狀奏聞.太子此日侍御床下.天皇謂太子曰:「我國之基,以神為主.而今大臣請祭異國之神,為之如何?」太子奏曰:「諸佛世尊,其道微妙.諸神隨之,不敢違佛.今大臣請興佛法,是國家之福矣.」即大臣承詔:「宜祭之.」大臣禮拜石像,乞延壽命.於是,國有疫疾,民死者眾焉.
三月,物部弓削大連、中臣勝海連等,奏曰:「從先天皇,至于陛下.疫疾未息,人民可絕.良由蘇我大臣等興行佛法.」詔曰:「灼然.宜斷佛法.」太子奏曰:「二臣未識因果之理.修善福至,行惡禍來.是自然之理,如來之教也.兒聞,古之聖人,勝於大災故.有唐旱殷水之事.今之疫疾,以德可除.何更滅將興之法?能免將死之命耶?二臣如今,必蒙天禍.」二臣不聽,自詣於寺.斫倒堂塔,毀破佛像,縱火燔之.取所燒餘佛像,棄難波堀江.喚出三尼,奪其法服,就海石榴市之亭,並加笞辱.是日,無雲而大風雨.太子謂皇子曰:「禍始於此.」又發瘡死者,充滿國中.其幻瘡者言:「痛如燒斫.」老少竊相謂曰:「是燒佛像罪矣.」太子謂皇子曰:「如來之教,滅而更興,興而更滅.如今二臣破法之報,致此瘡疾.應祈請而脫之.」皇子與太子,擎香爐禮佛.
夏六月,大臣-馬子宿禰奏曰:「臣疾久不愈,願猶憑三寶.」詔曰:「汝可獨行.唯斷餘人.」乃以三尼,更付大臣.大臣受而歡喜.太子賀之曰:「以大臣威,興此妙法.佛法初興,善哉善哉.」大臣新營精舍,供養三尼.佛法之初,自茲,遂興正法.
不塞不流,不止不行,人其人,火其書,廬其居,明先王之道以道之,鰥寡孤獨廢疾者有養也,其亦庶乎其可也。
続く。
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