2005/12/31

守屋神社拝奉詞

2005-12-31-土 待つ人の今も來らば如何せむ踏まゝく惜しき庭の雪哉

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年二回の祭りも終わるもんだ。

菅家文草
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/waka/kanke/bunsou/bunsou.htm
121 其二,續前詩 本韻。
    賴君清冷肅浮埃 遮莫呵呵甚口猜 耳捉游魚隨手螾 媒投苦李滿懷環
    龍門遞送同時上 鳳韶相分二代裁 更聞高材一官老 孟堅著作兼蘭臺
    鳳韶云云:余與君,貞觀中對策及第。雖有先後,猶是一時。余即為著作郎。至元慶,君又為之。故云二代。
菅原道真菅家文草』巻第一0121

日本霊異記
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm
卅一 女人產生石以之為神而齋縁
 美乃國方縣郡水野鄉楠見村,有一女人.姓縣氏也.年迄于廿有餘歲,不嫁未通,而身懷妊.逕之三年,山部天皇世,桓武朝.延曆元年癸亥春二月下旬,產生二石.方丈五寸,一色青白斑,一色專青.每年增長.有比郡名曰淳見.是郡部內有大神.名曰-伊奈婆.託卜者言:「其產二石,是我子.」因其女家內,立忌籬而齋.往古今來,未都見聞.是亦我聖朝奇異事矣.

卅二 用網漁夫值海中難憑願妙見菩薩得全命縁
 吳原忌寸-名妹丸者,大和國高市郡波多里人也.自幼作網,捕魚為業.延曆二年甲子秋八月十九日之夜,到紀伊國海部郡內於伊波多岐嶋與淡路國之間海,下網捕魚.魚入三舟乘有九人.忽大風吹,破彼三舟,八人溺死.時名妹丸,漂之於海,至心歸於妙見菩薩,發願而言:「濟助我命,量乎我身,作妙見像.」漂海拒波,疲力惑心,如寐如覺.皎天覺睠,身在彼部內蚊田浦濱之草上焉.唯所濟,量於己身,作像而敬.鳴呼異哉.遇風破舟,擊波亡人,單唯一在.恕身作像.定知妙見大助,漂者信力也.
下巻、第卅一、第卅二を校了しました。

■おお
http://forum.facepunchstudios.com/showthread.php?t=80514
92式は男のロマンですもの。

■守屋神社
http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/50354620.html
おお、守屋神社ですね。
そういえば↓これがもしかしてこの守屋神社の神拝辞のある神社なのかな...
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/sinpaisi/haraekotoba03.htm#moriya01
守屋神社拝奉詞もりやノみやしろヲをがミまつルことば
神山かむやま稱辭竟奉たたえことちえまる  守屋神社みりやノみやしろ大前をほまえ 
かしこかしこミモ美毛をかまつりまをす 此處ここ朝日あさひかがや
甚善處成哉天晴貴いとよきところなるかもあはれみことキカモ支加毛 天壊あめつな與無窮むがとこしへナル奈留大岩おほきいは御神體みだましろいは御面みをもあかラニ良尓明坐あかりま
五百枝真賢木立榮いほえまさかきたちさかますごと 御心みこころさかまざ 物部守屋大連ものべノもりやノおおむらじぎみ御霊みだま
神勳霊國照主命かむいなだまくにてるぬしノみこと御名者白みなはまさし 稱辭竟奉たたえことをへまリテ利弖 
皇大御國すめらおほみくに
御道みち祖神をやかみみことあふまつ此神このかみ大御稜威おほみいつさちはたま 大御靈おほみだまさちはたまヒテ比弖
彌益益いやますます大神おほかみ御道みち令榮給さよえしめたまヘト閉登 かしこかしこミモ美毛いのたてまつ


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2005-12-30-金 君が代は白雲掛かる筑波嶺の峰の続きの海となるまで

[]新年イラストを描いた。 新年イラストを描いた。を含むブックマーク 新年イラストを描いた。のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

風雨来記の時坂樹...のつもりでしたが、大失敗。
恥ずかしいながら、それでも正月から発送予定です。



あと、今日は以前の日本語先生に誘って訳判らんWEB QUIZを参加して、
なんかお題は「三日二泊の東京旅行の計画提出(参考資料は日本語だけに限ります。)」であった。
いや、京都出雲なら興味があるが、さすが東京はあまり興味が無いんですよ。
しかも取点は参加者を互いに他人が提出したプロジェクトを評定するように殊更訳判らん...
私とパートナーはやる気を出さなくて、イロモノ東京旅行でもやろうかと冗談物を出る事にします。
私がやったのは、第一日の怨霊ツアー(将門首塚天満天神*1)と第三日の国会図書館ツアー
パートナーがやったのは秋葉原ソフトマップ買物とメイド喫茶ツアー
どんでもないイロモノ旅行企画を出で後、私の番では一応冗談気分で解説しました。
って...なんでこんな物は一位を取ったことはこれ以上の無い訳判らん*2..._| ̄|○
こんな訳判らんの連続、なんとか2000円(MGガンプラ二つを買えるくらい。)の賞金を貰いました。
ちょっとも納得できないからこの賞金が自分で使う気が全然ならない...
サークルの友人にあげようか...新年の外出用料として...

菅家文草
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/waka/kanke/bunsou/bunsou.htm
121 其二,續前詩 本韻。
    賴君清冷肅浮埃 遮莫呵呵甚口猜 耳捉游魚隨手螾 媒投苦李滿懷環
    龍門遞送同時上 鳳韶相分二代裁 更聞高材一官老 孟堅著作兼蘭臺
    鳳韶云云:余與君,貞觀中對策及第。雖有先後,猶是一時。余即為著作郎。至元慶,君又為之。故云二代。
菅原道真菅家文草』巻第一0120

日本霊異記
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm
廿九 村童戲剋木佛像愚夫斫破以現得惡死報縁
 紀伊國海部郡仁嗜之濱中村,有一愚癡夫.姓名未詳也.自性愚癡,不知因果.海部與安諦通而往還山,有山道.號曰-玉坂也.從濱中,指正南而踰,到乎秦里.當里小子,入山拾薪,其山道側戲遊.木剋以為佛像,累石為塔,以戲剋佛而居石寺,時時戲遊.白壁天皇之世,彼愚夫,咲戲剋佛,以斧殺破棄之.而去之不遠,舉身躄地.從口鼻流血,兩目拔,如夢忽死.諒知,護法非無,何不恭敬.如法華經說:「若童子戲木及筆,或以指爪甲,而畫作佛像,皆成佛道.復舉一手,小低頭,以此供養佛像,成無上道.」是以慎信矣.

三十 沙門積功作佛像臨命終時示異表縁
  老僧觀規者,俗姓-三間名干岐也.紀伊國名草郡人也.自性天年雕巧為宗.有智得業,並統眾才.著俗營農,畜養妻子.先祖造寺,有名草郡能應村.名曰-彌勒寺,字曰-能應寺也.觀規聖武天皇之代,發願雕造尺迦丈六並脅士,以白壁天皇世寶龜十年己未,奉造既畢.居能應寺之金堂,以設會供養.又發願,雕造十一面觀音菩薩木像高十尺許,半造未畢.小緣歷年之,老耄力弱.不得自雕.爰老僧年八十有餘歲之時,長岡宮御宇大八嶋國山部天皇代,桓武朝.延曆元年癸亥春二月十一日,臥于能應寺而命終焉.逕之二日,更甦還之.召弟子明規言:「我忘一語,不得念忍.故還來也.」即令立床敷席備食.於是,請智武藏村主多利丸,居床饗食,對面共食,既畢之,即從坐起,引率明規並諸親屬,長跪禮於多利丸言:「觀規少分,盡命不畢觀音像,而忽率罷.今幸逢嘉時,盍申所思.伏願蒙尊芳慈,欲畢聖像.寸心之願,僅當所望,故後生大福,被於觀規,現報功德,蒙於尊主.不勝至誠,更參還來,奉無禮狀.悚慄謹白.」爰多利麿及以明規等,悲哭涕淚而答曰:「請語狀,我必奉畢.」沙門聞之,起拜歡喜.又逕二日,至同月十五日,召明規言:「今日當佛涅槃日,余亦命終.」明規將告,見慈儀,不勝愛之至,詐言而白:「未及彼日.」師乞曆見之言:「今當十五日.何我子虛言未及也.」乞湯洗身,易著袈裟,胡跪合掌,擎持香爐,燒香向西,便日申時,命終之矣.既而佛師多利麿,受遺言,造彼十一面觀音像,因關白供養已訖.今居能應寺之塔本也矣.
 贊曰:「嗟呼慶哉,三間名干岐之氏大德.內密聖心,外現凡形.著俗觸色,不染戒珠,臨沒向西,走神示異.」誠知,是聖非凡矣.
下巻、第廿九、第三十を校了しました。

イザイホー
159斎場御嶽(せーふぁうたき)・久高(くだか)島・イザイホー・園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)
 琉球で最高の聖地とされる斎場御嶽(せーふぁうたき)は、沖縄本島南部の知念半島の南側、知念(ちねん)村の巨石によって周囲から隔絶した太平洋に面する清浄な場所にあります。斎場御嶽から見通される東の海上に昔琉球の創造神であるアマミキヨが降臨したと伝える久高(くだか)島があり、12年毎にイザイホーと呼ばれる神女昇格のための秘密の祭事が行われていましたが、昭和53(1978)年を最後に神女昇格の資格者が不在のため行われなくなりました。
 なお、那覇市首里城の近くには首里城守護神を祀る園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)があり、琉球王が外出するときは必ずその前に礼拝を欠かさなかったと伝えます。
 この「せーふぁ」、「うたき」、「くだか」、「イザイホー」、「そのひゃん」は、
  「ウ・タキ」、U-TAKI(u=be fixed,reach its limit;taki=take out of the way,track,bring along,recite)、「(俗界を)離れて・行き着いた(場所。聖地)」
  「テイ・フア」、TEI-HUA(tei,teitei=high,tall,summit;hua=section of land,screen from wind,raise with a lever)、「至高の・周囲を囲った場所(聖地)」
  「ク・タカ」、KU-TAKA(ku=silent;taka=fall off,fall away,heap)、「(昔創造神アマミキヨが)降臨した・静寂な(島)」
  「イ・タイホウ」、I-TAIHOU(i=from,beside,beyond;taihou=stranger)、「部外者を・脱する(神女の資格を持たない部外者に・神女の資格を与える。儀式)」
  「トノ・ヒア(ン)ガ」、TONO-HIANGA(tono=bid,command,drive away by means of a charm;hianga=act of raising,vicious,deception)、「(国王の外出に際して)最高のお祓いを・要求された(神を祀る場所。聖地)」(「ヒア(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヒアナ」から「ヒヤン」となった)
転訛と解します。


*1:しかも秋葉原近い!第二日の秋葉原ツアーの敵情探察でも...
*2秋葉原ツアーは兎も角、私の怨霊ツアーが普通人なら引くだと自慢していたのに
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2005-12-29-木 思ふ事なくて過ぎぬる世中に遂に心を留めつるかな

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イザイホウ
http://www.tabiken.com/history/doc/A/A347C100.HTM
http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kaiga/kaiga15.htm
どう翻訳すればいいか全然...

菅家文草
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120 予作詩情怨之後,再得菅著作長句二篇。解釋予憤,安慰予愁。憤釋愁慰,朗然如醒。予重抒蕪詞,謝其得意 本韻。
    家業年租本課詩 情田欲倦莠言滋 材窺孟立無全性 女妬新來不棄媸
    對客頻逢珠子白 從師殆入薛衣緇 是人若用剛柔成 莫願偷為雋不疑
    從師云云:余自聞惡名,有意出俗。故云。
菅原道真菅家文草』巻第一0120

日本霊異記
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廿七 髑髏目穴笋揭脫以祈之示靈表縁
 白壁天皇世,寶龜九年戊午冬十二月下旬,備後國葦田郡大山里人,品知牧人,為買正月物,向同國深津郡於深津市而往.中路日晚.次葦田郡於葦田竹原.所宿之處,有呻音言:「痛目矣.」牧人聞之,竟夜不寢而踞.明日見之,有一髑髏.笋生目穴而所串之.揭竹解免,自所食餉以饗之言:「吾令得福.」到市買物,每買如意.疑彼髑髏,因祈報恩矣.從市還來,次同竹原.時彼髑髏,乃現生形而語之言:「吾者葦田郡屋穴國鄉穴君弟公也.賊伯父-秋丸所殺是也.風吹每,動我目甚痛.蒙仁者慈,痛苦既除.今飽得慶.不忘其恩.不勝幸心.欲酬仁者恩.我父母家,有于屋穴國里.今月晦夕,臻於吾家.非彼宵者,無由報恩.」牧人聞之,增怪不告他人.期之晦暮,至於彼家.靈操牧人之手,控入屋內,讓所具饌,以饗共食,所殘皆裹,并授財物.良久,彼靈倏忽不現.父母為拜諸靈,入其屋裏,見牧人而驚,問於入來之緣.牧人於是,如先具述.因捉秋丸,問殺所由:「如汝先言,汝與吾子俱向於市.時汝負他物,未償其債.遇於中路而徵乞之,弟公捨而來之:『若來不也?』我答汝言:『未來不視.』今所聞,何違于先語?」賊盜-秋丸,惣意悸然,不得隱事.乃答之言:「去年十二月下旬,為買正月元日物,我與弟公率往于市.所持之物,馬布綿鹽.路中日晚,宿于竹原,竊殺弟公,而摕彼物,到于深津市,馬賣讚岐國人,自餘物等,今出用之.」父母聞之:「嗟呼我愛子,為汝所殺.非他賊.」同父母之弟如,葦蘆之隟,故匿內其過失.擯出不見之.外便禮牧,人更饗飲食.牧人還來,以狀轉語.夫日曝髑髏,尚故如是.施食報福,與恩報恩.何況,現人豈忘恩乎.如涅槃經說:「受恩報恩.」者,其斯謂之矣.

廿八 彌勒丈六佛像其頸蟻所嚼示奇異表縁
 紀伊國名草郡貴志里,有一道場.號曰-貴志寺.其村人等,造私之寺,故以為字也.白壁天皇代,有一優婆塞,而住其寺.于時,寺內音而呻言:「痛哉!痛哉!」其音如老大人之呻.優婆塞初夜思疑行路之人得病參宿.起巡堂內,見堂無人.其時,有塔木.未造淹仆伏而朽.疑斯塔靈矣.彼病呻音,每夜不息.行者不得聞忍,故起窺看,猶無病人.然最後夜,倍於常音,響于大地,而大痛呻.猶疑塔靈也.明日早起,見堂內,其彌勒丈六佛像頸,斷落在土.大蟻千許集,嚼摧其頸.行者見之,告知檀越.檀越等悵,復奉造副,恭敬供養矣.夫聞,佛非肉身.何有痛病.誠知,聖心示現.雖佛滅後,而法身常存.常住不易.更莫疑之焉.
下巻、第廿七、第廿八を校了しました。

■夢使い、アニメ化
http://shop.kodansha.jp/bc/comics/eizou/
植芝理一「夢使い」2006年4月よりTVアニメ化決定!

世界最大?の門松登場――愛知県護国神社2005年12月26日7時32分\共同通信社)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20051226SSXKB046926122005.html
小泉首相高速道路を移して、日本橋を復活せよ(2005年12月27日毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/archive/news/2005/12/27/20051227ddm002010097000c.html





consigliereconsigliere 2005/12/29 15:00 kuonkizunaさん、トラバありがとうございました!
『ホツマツタヱ』に回文があるとは。w すごい興味深いですね。「恋しき」は古語の仮名遣いでは「こひしき」なので、「きしいこそ」では回文にならない、というのが偽書らしくてステキです。w

kuonkizunakuonkizuna 2005/12/29 19:56 コメントどうも有難う御座います。
「キシヰコソツマオミキワニコトノネノトコニワキミオマツゾコイシキ」原文。
そうですね、ホツマツタヱが偽書である事を判ったのは、このような用例が多くあるからです。甲乙類の仮名が分けずに、江戸時代以降の文形と知識も張りましたので偽書で一発判明ですよね。

2005/12/28

誰もが罪悪感を抱きながらオタクをやってるの!

2005-12-28-水 止りゐて待つべき身こそ老いにけれ哀れ別は人の為かは

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菅家文草
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119 余,近敘詩情怨一篇,呈菅十一著作郎。長句二首,偶然見詶。更依本韻,重答以謝
    請君好詠一篇詩 唯恨無人德務滋 讒言音聲竽尚濫 厚顏脂粉鏡知媸
    雲生不放寒蟾素 桂死何勝毒蠹緇 銷骨元來由積毀 履冰未免老狐疑  【1】
    唯恨云云:尚書曰,樹德務滋。
    生涯我是一塵埃 宿業頻遭世俗猜 東閤含將真咳唾 北溟賣與偽珍瓌
    三條印綬依恩佩 九首詩篇奉敕裁 凡眼昏迷料理 丹鴉鏡掛碧霄臺  【2】
    九首云云:來章曰:「蒼蠅舊讚元台弁,白體新詩大使裁。」注云:「近來有聞。裴頲云:『禮部侍郎,得白氏之體。』」余,讀此二句。感上句之不欺,兼下文之多詐。詶和之次,聊述本情。余,心無一德,身有三官。惣而言之,事緣恩獎。更被敕旨,假號禮部侍郎,與渤海入覲大使裴頲相唱和。詩惣九首,追以慙愧。故有此四句,
菅原道真菅家文草』巻第一0119

日本霊異記
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廿五 漂流大海敬稱尺迦佛名得全命縁
 長男-紀臣-馬養者,紀伊國安諦郡吉備鄉人也.小男-中臣連-祖父麿者,同國海部郡濱中鄉人也.紀-萬侶朝臣,居住於同國日高郡之潮,結網捕魚.馬養、祖父丸二人,傭賃而受年價,從萬侶朝臣,晝夜不論,苦行駈使,引網捕魚.白壁天皇世寶龜六年乙卯夏六月六日,天卒吹強風,降暴雨,潮漲大水,流出雜木.萬侶朝臣,遣于駈使,取於流木.長男、小男二人,取木編桴,乘於同桴,拒逆而往.水甚荒,忽絕繩解栰,過潮入海.二人各得一木,以乘漂流於海.二人無知,唯,稱誦:「南無無量,災難令解脫.尺迦牟尼佛.」哭叫不息.其小男者,逕之五日,其日夕時,淡路國南西田町野浦,燒鹽之人住處,僅依泊也.長男-馬養,後六日寅卯時,同處依泊也.當土人等見之,問來由,狀知愍養,申當國司.國司聞見之,悲賑給糧.小男歎曰:「從殺生人,受苦無量.我亦還到,彼又駈使,猶聿不止殺生之業.」留淡路國國分寺,從其寺僧.長男逕之二月,歸來本土.妻子見之,面目漂青.驚怪之言:「入海溺死,逕七七日,而為齋食,報恩既畢.不思之外,何活還來.若是夢矣.若是魂矣.」馬養向妻子,具陳先事.於是妻子聞之,相悲相喜.馬養發心厭世,入山修法.見聞之者,無不奇矣.海中雖多難,而全命存身,寔尺迦如來之威德,海中漂人之深信矣.現報猶如是.況後報也.

廿六 強非理以徵債取多倍而現得惡死報縁
 田中真人-廣蟲女者,讚岐國美貴郡大領-外從六位上-小屋縣主-宮手之妻也.產生八子,富貴寶多.有馬牛奴婢稻錢田畠等.天年無道心,慳貪無給與.酒加水多,沽取多直.貸日與小升,償日受大升.出舉時用小斤,償收大斤.息利強徵太甚.非理或十倍徵,或百倍徵.債人澁取,不為甘心.多人方愁,棄家逃亡,趻跰他國,無逾此甚.廣蟲女,以寶龜七年六月一日,臥病床,而歷數日,故至七月廿日,呼集其夫並八男子,語夢見狀而言:「閻羅王闕所召,而示三種之罪.一者三寶物多用不報之罪.二者沽酒加多水取多直之罪.三者斗升斤兩種用之,與他時用七目,乞徵時用十二目而收.『依此罪召汝.應得現報,今示汝耳.』」傳語夢狀,即日死亡.逕于七日,不燒而置,請集禪師優婆塞卅二人,九日之頃,發願修福.其七日夕,更甦還之,棺蓋自開.於是望棺而見,甚臭無比.自腰上方,既成牛,額生角長四寸許.二手作牛足,爪皴似牛足甲.自腰下方成人形.嫌飯噉草,食己齝齝.反芻狀.裸衣不著,臥於糞土.東西之人,匆匆走集怪視,隙頃莫息.大領及男女之,愧恥戚慟,五體投地,發願無量.為贖罪報,三木寺進入家內雜種財物,東大寺進入牛七十頭馬卅疋治田廿町稻四千束,負他人物,皆既免之.國司郡司見,將送解官之比頃,經五日而死.舉國郡見聞之人,喟然懆然.不睠因果,非理無義.是以定知,非理現報,無義惡報矣.現報猶然,況亦後報乎.如經說:「債物不償,作馬牛償云云.」負人如奴,物主如君.負人如鴙,物主如鷹.唯雖負物,而徵非分,返作馬牛,更役償人.故莫過徵迫也.
下巻、第廿五、第廿六を校了しました。


聖徳太子伝暦
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/seitoku/denreki.htm
三、用明天皇三十二代 諱,橘豐日.欽明天皇第四子.敏達天皇第三弟也.磐余池邊雙槻宮.治二年.
 元年十五歲,丙午,春正月,納庶妹穴太部間人皇女,為皇后.天皇敏達天皇崩年九月即位.故不稱即位.太子奏曰:「兒相天體,遐壽不延.代兄踐祚,願施仁德.雖居諒陰.不可不勤.」天皇詔微言曰:「朕恤兒之蔭子不緒故,悅朕之年命不永.」太子答曰:「過去之因也.兒身僅脫,及于子孫.尸解登仙,魂胎蓮花.復亦何恨,無可如何.」天皇默然矣.
 二月,太子密奏曰:「叔父將不和於姑后,二臣將不忠於天下.」天皇聞而知之,歎天下之不穩.
 二年,十六歲,丁未,夏四月,天皇不豫.太子不解衣帶,日夜侍病.天皇一飯,太子一飯.天皇再飯,太子再飯.擎香爐祈請,音不絕響.詔群臣曰:「朕思欲歸三寶,卿等宜量也.」物部-守屋大連、中臣-勝海連等曰:「何背國神,敬他神乎?由來,不識若此事矣.」蘇我大臣曰:「可隨詔而助.誰生異計.」遂引豐國法師,入於內裏.太子大悅,握大臣手,垂淚而語曰:「三寶妙理,人不識之.妄生異說,邪見成釁.如今,大臣歸心福田,率師祈禱.兒異大歡.」迴悲成喜,喜不可議.大臣叩頭曰:「賴殿下聖德,興隆三寶.臣之死日,復生年矣.」大連,橫睨大怒.太子謂左右曰:「大連不識因果之理.而今將亡,彼不識之.嗚呼可悲.」
 是時,有人密語大連曰:「今,群臣圖卿.不可不慎.」大連聞之,即退阿都之宅,集聚人眾.中臣-勝海連,亦集人眾於宅,將助大連.兼作厭魅,及于乘輿.事既發覺,大臣遣太子舍人-跡見-赤檮弒之.爰大連遣使,謂大臣曰:「吾聞,群臣謀我.我故退之.」
 于時,佛工-鞍造部-多須奈,為天皇,自身出家,造丈六佛像并坂田寺.太子握手垂淚曰:「兒雖愚庸,助子崇法.況乎千秋萬歲之後,兒何以遺冥助福慶乎?」
 是月,天皇彌留.太子躍哭,將絕者數矣.及于屬纊,太子攜大臣頸叫泣.絕而復蘇,再三度矣.大臣相提慰洩.
 六月,大臣奉炊屋姬詔,遣佐伯連-舟徑綱手等,率兵欲弒穴太部皇子、宅部皇子等.是二皇子者,天皇兄弟.阿黨大連,呪咒詛天皇,厭魅大臣,故及於死.太子諫大臣曰:「人之所以為人者,皆以生命也.彼二皇子者,天皇天倫,兒之伯叔矣.議其罪源,須處輕典.願卿為兒寬怒,應移他國.」大臣不聽,答曰:「大義不顧親,其是謂也.」太子謂左右曰:「大臣迷因果,復亦難免.」
 秋七月,大臣與諸皇子,率君討大連.又,大伴咋子連、阿倍臣、平群神手臣等,率兵從志紀郡會于澀川,共擊大連.於是,大連部率子弟及奴等,築于稻城而接戰.其軍強盛,填家溢野.皇軍恐怖,三迴卻還.是時,太子隨大軍後,自忖曰:「非願佛神,難濟.」乃命軍允-秦造-川勝,取白膠木,刻作四天王像,置於頂法,而發願曰:「今使我軍勝敵,則必奉為護世四天王,起立寺塔.」大臣又發願如是.進軍相戰,太子復攻.此時,大連登大榎木,誓稱:「物部府都フツ大明神之矢.」放之,中太子鐙.太子命跡見-赤檮,稱:「四天王之矢.」放,中大連胸.倒而墬木.賊眾躁亂.川勝,斬大連頭.三小將軍,直入大連家.子孫資財田宅,皆為寺分.唯以大連私田萬頃,賜跡見-赤檮等.於玉造岸上,始基四天王寺.又於大和飛鳥地,立法興寺.太子與大臣,相與商量焉.
 秋七月,葬天皇於河內科長中尾山陵.太子素服步隨,兩足見血,舉輿強進.下梓官間,躍叫擗踊,絕而更蘇.觀者大悲.此日天陰,微雨數矣.人皆以為太子感孝之所致也.


自作PCっていうのは...
http://sae.cside.com/sae/kat/pc/ern005/ekana.htm
俺的には無理、ええ無理です。

らき☆すた
生涯現役オタって....._| ̄|○


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2005-12-27-火 慰むる方もなくてややみなまし夢にも人の難面かりせば

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菅家文草
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118 詩情怨 古調十韻 呈菅著作,兼視紀秀才
    去歲世驚作詩巧 今年人謗作詩拙 鴻臚館裏失驪珠 卿相門前歌白雪
    非顯名賤匿名貴 非先作優後作劣 一人開口萬人喧 賢者出言愚者悅
    十里百里又千里 駟馬如龍不及舌 六年七年若八年 一生如水不須決
    一生如水穢名滿 此名何水得清潔 天鑑從來有孔明 人間不可無則哲
    惡我偏謂之儒翰 去歲世驚自然絕 呵我終為實落書 今年人謗非真說
菅原道真菅家文草』巻第一0118

日本霊異記
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廿三 用寺物復將寫大般若建願以現得善惡報縁
 大伴連-忍勝者,信濃國小縣郡孃里人也.大伴連等,同心其里中作堂,為氏之寺.忍勝為欲寫大般若經,發願集物,剃除鬢髮,著袈裟,受戒修道,常住彼堂.寶龜五年甲寅春三月,倏被人讒,堂檀越所打損而死.檀越者即忍勝之同屬.眷屬議曰:「令斷于殺人之罪.」故轉不燒失,點地作冢,殯收而置.然歷五日,乃甦,語親屬言:「召使五人,共副疾往,往道頭有其峻坂.登於坂上,而躊躇見有三大道.一道平廣,一道草生荒,一道以藪而塞.衢中有王.使白言:『召.』王示平道言:『從是道將.』王使衛.往道末有大釜.釜湯氣如焰,湧沸如波,吼鳴如雷.即生取忍勝,井投彼釜.釜冷破裂,而成四破.爰三僧出來,問忍勝言:『汝作何善?』答:『我不作善.唯欲寫大般若經六百卷,故先發願而未書寫.』于時,出三鐵札,校之如白.僧告之言:『汝實發願,出家修道.雖有是善,而多用于住堂之物.故摧汝身.今還畢願,後殯堂物.』纔放還來,過三大衢,從坂而下.即見甦返.斯乃發願之力.用物之災,是我招罪.非地獄咎矣.」大般若經云:「凡錢一文,至廿日,倍一百七十四萬三貫九百六十八文在.故竊一文錢莫盜用也.」者,其斯謂之矣.

廿四 依妨修行人得猴身縁
 近江野州郡部內御上嶺有神社.名曰-陁我大神.奉依封六戶.社邊有堂.白壁天皇御世之寶龜年中,光仁朝.其堂居住大安寺僧-惠勝,暫頃修行時,夢人語言:「為我讀經.」驚覺念怪.明日,小白猴現來言:「住此道場,而為我讀法華經.」云.僧問言:「汝誰耶?」猴答言:「我東天竺國大王也.彼國有修行僧從者數千所.農業怠.數千者千餘數之數千也.因我制言:『從者莫多.』其時我者,禁從眾多,不妨修道.雖不禁修道,因妨從者,而成罪報.猶後生受此獼猴身,成此社神.故為脫斯身,居住此堂,為我讀法華經.」言:「然者供養行也.」時獼猴答曰:「無本應供物.」僧言:「此村籾多有.此乎充我供養料,令讀經.」獼猴答言:「朝庭臣貺我.而有典主,念之己物,不免我.我恣不用.」典主者即彼神社司也.僧言「無供養者,何為奉讀經?」獼猴答言:「然者淺井郡有諸比丘,將讀六卷抄故,我入其知識.」淺井郡者,同國內有郡也.六卷抄者,是律名也.此僧念怪,隨獼猴語,往告檀越曰山階寺滿預大法師,陳猴誂語.其壇越師,不受而言:「此猴語也.我者不信,不受,不聽.」即將讀抄,為設之頃,堂童子優婆塞,匆匆走來言:「小白猴居堂上.纔見,九間大堂仆如徵塵.皆悉折摧.佛像皆破.僧坊皆仆.」見,誠如告,既悉破損.檀越曰僧,更作七間堂.信彼陁我大神題名猴之語,同入知識,而讀所願六卷抄,並成大神所願.然後乎至于願了,都無障難.夫妨修善道儻,得成獼猴報.故僧勸催,猶不可妨.得惡報故.往昔過去羅,作國王時,制一獨覺,不令乞食.入境不得,七日頃飢.依此罪報,羅睺羅不生六年,在母胎中者,其斯謂也矣.
下巻、第廿三、第廿四を校了しました。


■プリティフェイス@種死Alpha's BLOGより)
http://blog.goo.ne.jp/alpha623/e/8dad7e831265c14ed65b9504c4657f0d

ヲタクはみんな...
全日本妹選手権を読み直ると、こういう話をみつけた。
B「さぁ、このパチンコ玉を迷えるオタクにぶつけるのよ!」
A「ええ!?そんな事出来ませんよ!」
C「いいえ、彼らの為なの!情けは禁物よ!!」
B「そう...誰もが罪悪感を抱きながらオタクをやってるの!」
D「彼らの魂を救ってやってくれ!」
罪悪感を抱きながらオタクをやってるの、と。こういうオタクはまだ可愛いと思います。
最近は罪悪感を抱かなくてオタクをやってるの、もとい自慢できない事を自慢してるキモヲタが増えるような気がします。

巫女分補給(より)
http://www.nagomiko.net/mailbbs/mailbbs.php
>#632、巫女分補給。
>     ヤル気ゲージ
>行く前  ★★☆☆☆☆☆☆☆☆☆  ('A`)
>行った後 ★★★★★★★★★★★  (゚∀゚)
效果は絶大。

行殺スピリッツのご紹介
http://gpsc.hp.infoseek.co.jp/gsr1/index.html
ア、阿呆だ。_| ̄|○


玄史生玄史生 2005/12/28 02:45 世界最大?の門松登場――愛知県護国神社(2005年12月26日7時32分\共同通信社)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20051226SSXKB046926122005.html
小泉首相:高速道路を移して、日本橋を復活せよ(2005年12月27日\毎日新聞)
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/archive/news/2005/12/27/20051227ddm002010097000c.html
いつか、台北市の承恩門(北門)脇の高架(立体)快速道路も完全撤去......

kuonkizunakuonkizuna 2005/12/28 03:05 こんばんは、玄史生さんまだ眠れないのでしょか。お体をお大事にしてくださいね。
こちらも宿題を早く終わりにしないと(死)...

2005/12/26

人其人,火其書,廬其居.所謂,令僧還俗,焚滅經書,沒寺為居也.

2005-12-26-月 諸共にたゝまし物を陸奥の衣の關をよそにきくかな

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菅家文草
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117 夢阿滿
    阿滿亡來夜不眠 偶眠夢遇涕漣漣 身長去夏餘三尺 齒立今春可七年
    從事請知人子道 讀書諳誦帝京篇 藥治沉痛纔旬日 風引遊魂是九泉
    尒後怨神兼怨佛 當初無地又無天 看吾兩膝多嘲弄 悼汝同胞共葬鮮
    萊誕含珠悲老蚌 莊周委蛻泣寒蟬 那堪小妹呼名覓 難忍阿孃滅性憐
    始謂微微腸暫續 何因急急痛如煎 桑孤戶上加蓬矢 竹馬籬頭著葛鞭
    庭駐戲栽花舊種 壁殘學點字傍邊 每思言笑雖如在 希見起居惣惘然
    到處須彌迷百億 生時世界暗三千 南無觀自在菩薩 擁護吾兒坐大連
    讀書云云:初讀賓王古意篇。
    悼汝云云:阿滿已後,小弟次么。
菅原道真菅家文草』巻第一0117

日本霊異記
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廿一 沙門一目眼盲使讀金剛般若經得明眼縁
 沙門-長義者,諾樂右京藥師寺之僧也.寶龜三年之間,長義眼闇盲,逕五月許.日夜恥悲,屈請眾僧,三日三夜,讀誦金剛般若經.便目開明,如本平也.般若驗力,其大高哉.深信發願,無願不應故也.

廿二 重斤取人物又寫法華經以現得善惡報縁
 他田舍人-蝦夷者,信濃國小縣郡跡目里人也.多富財寶,錢稻出舉.蝦夷奉寫法華經二遍,每遍設會,講讀既了.後復思議,猶不足心,更敬繕寫.唯未供養.寶龜四年癸丑夏四月下旬,蝦夷忽率.而死妻子量言:「丙年之人,故不燒失.丙年之人,質屬火性,遂不宜火葬.」點地作塚,殯以置之.死經七日,而甦告言:「使有四人,共副將往.廣野,次有卒坂.登於坂上,觀有大觀.於是峙視前路,多有數人,以箒掃路言:『奉寫法華經之人,從此路往,故我等掃淨.』即至待禮.前有深河.廣一町許.其河度椅.度椅者,渡橋也.有數人眾.其椅修理言:『奉寫法華經之人,從此椅度,故我修理.』到便待禮.到椅彼方,有黃金宮,其宮有王.椅本有三衢.一道廣平,一道草小生,一道以藪而塞.立蝦夷於其衢,一人入宮曰:『召.』王見之言:『此奉寫法華經之人.』即示於草小生道言:『從此道將來.』四人副至熱鐵柱,所令抱彼柱.編鐵熱燒,著背而押.歷三日夜,令抱銅柱.編銅甚熱,著背而押.又逕三日,極熱如爝.鐵銅雖熱,非熱非安.編鐵雖重,非重非輕.惡業所引,唯欲抱荷.合歷六日乃出.三僧問蝦夷言:『汝知此意不也?』答:『不知也.』僧復問言:『汝作何善?』答:『我奉寫法華經三部.唯一部未供養之也.』札出三枚,二枚金札,一枚鐵札.亦斤出二枝,一枝重倍稻一把,一枝輕減稻一把.于時,僧言:『校札之者,實如汝曰.敬寫三部法花大乘也.雖寫大乘,而作重罪.所以者何.汝用斤二,出舉之時,用於輕斤,徵納之日,用於重斤,故召汝耳.今者忽還.』還來,如前多人以箒掃道,作椅言:『奉寫法華經之人,從閻羅王宮還來之.』度彼椅畢,纔見甦還.」然而後戴所寫之經,增發信心,講讀供養.誠知,作善來福,作惡來災.善惡之報,終不朽失,並受二報.唯專作善,不可作惡矣.
下巻、第廿一、第廿二を校了しました。

■我流の翻訳とは
浦木裕(24)。日本語中国語もなかなかの上手と言えません。
興味の一つは翻訳、というより、モノを自分が読む易いようにしたいところです。
こんな自己満足の私ですが、どうやって翻訳するんのでしょか。
先ず、翻訳するものは出版向でなければ、万人受けるような配慮が要りません。
私はどうやって翻訳するのを、これから紹介しましょう。

先ずは、古今和歌集仮名序原文
 やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。
 このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。[あまのうきはしのしたにて、め神を神となりたまへる事をいへるうたなり。]しかあれども、世につたはることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり[したてるひめとは、あめわかみこのめなり、せうとの神のかたち、をかたににうつりて、かがやくをよめるえびす哥なるべし、これらはもじのかずもさだまらず、うたのやうにもあらぬことども也。]あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし。ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。[すさのをのみことは、あまてるおほむ神のこのかみ也、女とすみたまはむとて、いづものくにに宮づくりしたまふ時に、その所にやいろのくものたつを見てよみたまへる也、やくもたついづもやへがきつまごめにやへがきつくるそのやへがきを。]かくてぞ、花をめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶ心、ことばおほく、さまざまになりにける。とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて、年月をわたり、たかき山も、ふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたも、かくのごとくなるべし。
 なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。[おほさざきのみかどの、なにはづにてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし。]あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて[かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。
 そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき。
 そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。
 ふたつには、かぞへうた、
さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて
といへるなるべし。[これは、ただ事にいひて、ものにたとへなどもせぬもの也、このうたいかにいへるにかあらむ、その心えがたし。いつつにただことうたといへるなむ、これにはかなふべき。]
 みつには、なずらへうた、
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
といへるなるべし。[これは、ものにもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この哥よくかなへりとも見えず。たらちめのおやのかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
 よつには、たとへうた、
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも
といへるなるべし。[これは、よろづのくさ木、とりけだものにつけて、心を見するなり。このうたは、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへうたとおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。すまのあまのしほやくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この哥などやかなふべからむ。]
 いつつには、ただことうた、
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。[これは、ことのととのほり、ただしきをいふ也。この哥の心、さらにかなはず、とめうたとやいふべからむ。山ざくらあくまでいろを見つる哉花ちるべくも風ふかぬよに。]
 むつには、いはひうた、
このとのはむべもとみけりさき草のみつばよつばにとのづくりせり
《下略》
紀貫之が書いた古今集の原文です。ご覧とおり女手、つまり仮名で書いたものです。
中国語、もとい漢文は、男手で真名漢字)で書いたもので、
私がやってる翻訳の準備工作は「女手から男手へ」、と言うわけです。

今のどころ、私が手掛かりした原文が、こうなっています。
 和歌は、人の心を種として、萬の辭とぞなれりける。世中に或る人、事、業、刺激物なれば、心に思ふ事を、見る物、聞く物につけて、言ひ出せる也。花に鳴く鶯、水に棲む蛙の聲を聞けば、息とし生ける者、孰れか歌を詠まざりける。力をも要れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の仲をも和らげ、彪き武士の心をも慰むるは、歌也。
 此の歌、天地の開け始まりける時より、居できにけり。[天浮橋の下にて、女神男神と成り給える事を言へる歌也。]しかあれども、世に伝はる事は、久方の天にしては、下照姫に始まり[下照姫とは、天稚彥の妻也、兄の神の形、崗谷に移りて、輝くを詠める夷歌なるべし、此れらは文字の數も定まらず、歌の様にも有らぬ事ども也。]荒かねの土にては、素戔鳴尊よりぞ、興りける。千振る神代には、歌の文字も定まらず、素直にして、事の心わき難かりけらし。人世と成りて、素戔鳴尊よりぞ、三十一字は詠みける。[素戔鳴尊は、天照孁貴神の弟神也、女と住給はむとて、出雲國に宮造りし給ふ時に、その所に八色雲の立つを見て詠み給へる也、八雲立つ出雲八重垣妻篭めに八重垣作るその八重垣を。]斯くてぞ、花を愛で、鳥を羨み、霞を哀れび、露を悲しぶ心、辭多く、様様に成りにける。遠き所も、居で立つ足元より始まりて、年月を渡り、高き山も、麓の塵土より成りて、天雲たなびくまで追ひ昇れる如くに、此の歌も、斯くの如く成るべし。
 難波津の歌は、帝の御始め也。[大鷦鷯帝の、難波津にて皇子と着こえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで、三年になりにければ、王仁と言ふ人の訝り思て、詠みて奉りける歌也、此の花は梅の花を言ふなるべし。]安積山の辭は、采女のたはぶれより詠みて[葛城の大君を陸奥へつかはしたりけるに、國の司、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、采女なりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、安積山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、この二歌は、歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の始めにもしける。
 そもそも、歌の態、六つ也。唐の歌にも、斯くぞ有るべき。
 その六種の一つには、風歌。大鷦鷯帝を、風へ奉れる歌、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
と言へるなるべし。
 二つには、賦歌、
さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて
と言へるなるべし。[これは、ただ事に言ひて、ものにたとへなどもせぬもの也、このうたいかにいへるにかあらむ、その心えがたし。いつつにただことうたといへるなむ、これにはかなふべき。]
 三つには、比歌、
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
と言へるなるべし。[これは、ものにもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この歌よくかなへりとも見えず。たらちめのおやのかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
 四つには、興歌、
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも
と言へるなるべし。[これは、よろづのくさ木、とりけだものにつけて、心を見するなり。このうたは、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへうたとおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。すまのあまのしほやくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この哥などやかなふべからむ。]
 五つには、雅歌、
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
と言へるなるべし。[これは、ことのととのほり、ただしきをいふ也。この哥の心、さらにかなはず、とめうたとやいふべからむ。山ざくらあくまでいろを見つる哉花ちるべくも風ふかぬよに。]
 六つには、頌歌、
このとのはむべもとみけりさき草のみつばよつばにとのづくりせり
《下略》
まだまだ途中ですから、未だ変更しなかった言葉も沢山有りますが。
要する、漢字で表記できるものを、できる限り漢字で表記します。
これから、元よりもっと男手らしき文章を、漢文に変更しますのは、我流の翻訳方。
ここで一番必要のは、語言力ではなく、経験と考察力と思います。
特に、真名序や記紀神話を知らず調べずに喩えどんな語言力が有っても、こういう翻訳方は向かないと思います。

但し、かの「真名序」もこの「仮名序」の翻訳だけど、
略した物は少なくないから察すると、無くなったところは本来、漢文に向かないと思われます。
こういうモノを漢文に翻訳することはもっとも不適切かも知れませんが、へたれながら翻訳してみます。


クリスマス日本人宗教感(西野神社社務日誌より)
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20051224
クリスマスケーキで祝い、除夕がお寺の鐘声を聞きに行って、そして新年神社初詣にいく..
という話はよく気からましたが、神社立場から見るとどうなんでしょう。
栃木県日光に鎮座する、世界遺産にも指定されているある有名な神社では、
>毎年、崇敬者のケーキ職人からクリスマスケーキの奉納を受けているそうです。
いや、それはビックリしました。^^;


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2005-12-25-日 君すまばとはましものを津の國の生田の杜の秋のはつ風

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クリスマスというかなんというか、
研究室特許権出願書の準備稿を読んで過ごした一日でした。

菅家文草
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116 水中月
    滿足寒蟾落水心 非空非有兩難尋 潛行且破雲千里 徹底終無影陸沉
    圓似江波初鑄鏡 映如沙岸半披金 人皆俯察雖清淨 唯恨低頭夜漏深
菅原道真菅家文草』巻第一0116

日本霊異記
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm
十九 產生肉團之作女子修善化人縁
 肥後八代郡豐服鄉人,豐服廣公之妻懷妊,寶龜二年辛亥冬十一月十五日寅時,產生一肉團.其姿如卵.夫妻謂為非祥,入笥以藏置之山石中.逕七日而往見之,肉團殼開,生女子焉.父母取之,更哺乳養.見聞人,合國無不奇.經八箇月,身俄長大,頭頸成合,異人無顊.身長三尺五寸.生知利口,自然聰明.七歲以前,轉讀法華八十華嚴.默然不逗.終樂出家,剃除頭髮,著袈裟,修善化人.無人不信.其音多出,聞人為哀.其體異人,無膣無嫁.膣,底本作門中也字.唯出尿有竇.愚俗呰之,號曰-猴聖.時託磨郡之國分寺僧,又豐前國宇佐郡之矢羽田大神寺僧二人,嫌彼尼言:「汝是外道.」啁呰嬲之.神人自空降,以桙將棠僧.僧恐叫終死也.大安寺僧-戒明大德,任彼筑紫國府大國師之時,寶龜七八箇年比頃,肥前佐賀郡大領-正七位上-佐賀君-兒公,設安居會.請戒明法師令,講八十華嚴之時,彼尼不闕,坐眾中聽.講師見之,呵嘖之言:「何尼濫交?」尼答之言:「佛平等大悲,故為一切眾生,流布正教.何故別制我?」因舉偈問之,講師不得偈通.諸高名智者怪之,一向問試.尼終不屈.乃知聖化,而更立名號-舍利菩薩.道俗歸敬,而為化主.昔佛在世時,舍衛城須達長老之女-蘇曼,所生卵十枚,開成十男,出家皆得羅漢果.迦毘羅衛城長老之妻,懷妊生一肉團,到七日頭,肉團開敷,有百童子.一時出家,而百人俱得阿羅漢果.我聖朝所彈壓之土,有是善類.斯亦奇異之事矣.
二十 誹奉寫法華經女人過失以現口喎斜報縁
 粟國名方郡埴村,在一女人.忌部首.字曰-多夜須子.白壁天皇代,是女奉寫法華經於麻殖菀山寺.于時,麻殖郡人-忌部連-板屋,舉顯彼女人之過失,以誹謗故,即口喎斜,面戾於後,而終不直.法華經云:「謗受持此經者,諸根闇鈍,矬陋攣躄,盲聾背傴.」又云:「見受持是經者,出其過惡,若實若不實,此人現世得白癩病.」者,其斯謂也矣.當慎信心.應讚彼德,不謗其缺.蒙大災故矣.
下巻、第十九、第二十を校了しました。

日本国史略・桓武天皇
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/siryaku/siryaku02-050.htm
何日前から言いたいのですが、なかなか時間が...(実は今も暇じゃない状態だけど)
日本国史略歴史書で有りながら、作者が色々な事件に対しての評論も收録しております。

例えば、桓武天皇紀が、以下のコメントがあります。
 二年,敕曰:「京畿定額諸寺,其數有限.既禁私立道場.比來,所司寛縱,曾不糺察.如經年代,無地不寺.宜嚴加禁斷.松苗曰:佛法東渡以來,世創寺塔.至前朝建國分寺,其弊極矣.韓子所謂:『人其人,火其書,廬其居.所謂,令僧還俗,焚滅經書,沒寺為居也.』者,勢既不易為也.帝立此禁,寔權宜良方也.獨怪未幾,延暦七年,僧-最澄,創寺於比叡山,建根本中堂.安藥師寺像,以稱濟世醫國.其後子院衆多,遂及三千.鴨水東北,無地不寺.民居,僅夾堂塔之間.而山徒暴虐,動起甲兵.譬由庸醫,口稱仁術,毎損人命.遂至使後世天子,有:『鴨水之漲與山僧之暴,朕亦無奈之.何之嘆.』嗚呼!自佛法入我邦以降,蠹國害政,未有如是甚者也.惜哉當時,處此良方,徒置不用,而使病勢益劇.茍有志濟世者,安得不長大息乎.後經七百餘歳,平公-信長,一怒,火攻之.天下大患,始得痊癒矣.治療之功,卻出自武將.豈謂之下策劫法乎.
 是歳,僧-最澄,創比叡山中堂.安藥師像.以鎮新都鬼門.松苗曰:『風俗通』曰:「上古時有神荼、鬱壘昆弟二人,性能執鬼.度朔山,上有桃樹,盤屈三千里.其卑枝向東北,曰-鬼門.二人於樹下,常簡閲百鬼.鬼無道理者.神荼與鬱壘持以葦索,執以飼虎.
」是故,縣官常以臘祭.又飾桃人,垂葦索畫虎於門以禦凶.又按唐土南方有鬼門關,易與之別也.松苗偶閲『神仙通鑑』,卷三醉蟠桃祝融奏樂曲條中有言:「木公.一名-鬱壘,一名-神荼.兄弟二人,惟能執鬼.山有二門.西南曰-神門,神荼守之.凡有邪神入山偸桃,以木劍斫其頂,桃枝貫其腮,投海中,與毒龍為餌.東北曰-鬼門,守以鬱壘.若有貪饕之鬼上樹殘食,即以葦索縛之,射以桃弧,投山坳,與猛虎食之.倶以十壯士為副,夫風俗通為書.」其來雖古,謾記世俗所傳,非有確據矣.『神仙通鑑』所載,固出筆端遊戲.今附記之者,以證怪妄越甚也.要之鬼門説,經傳子史無所概見.佛氏既曰:「本來無東西,何處有南北.」彼徒亦當不拘泥方位之説.然則妄誕不經之説耳.
 十八年,從三位-和氣-清麻呂,薨.清,為人識明志忠.嘗在孝謙之朝,使于宇佐,奉太神敕而折道鏡之勢.及遇赦還京,任豐前守,又為美作備前兩國造.及桓武帝為攝津大夫,奏請攝河之界,鑿川築堤,西通海,民蒙其利.又兼民部大輔、中宮大夫,皆稱其職.清,素明古事,撰『民部省例』二十卷.桓武帝賜以田,傳之子孫.薨年六十七.贈正二位.後世宇佐奉幣使,毎命和氣氏,蓋顯大功於無窮也.松苗曰:和氣氏不為黨邪以求茍免,蓋知名義至重,鬼神難欺也.自以為及獲罪流竄榮多矣.當時若使道鏡竊弄神器,雖居一朝,皇朝千古之辱也.而和氣氏見危授命,其力回天,為萬代所瞻仰.比之唐張説,關係更重.嗚呼偉矣.先是,有大中臣-清麻呂者,為右大臣.以其名同,世人或誤以為和氣氏.蓋以其功,宜至台鼎也.圖贊曰:皇統將移凡鄙,稱神語駭賊耳.嘻直哉,何畏死.國無道,亦如矢.
 是歳,遣使于唐.大使-葛野-麻呂,副使-石川-道益,判官-菅原-清公,録事-朝野-鹿取.四人皆有才學.僧-最澄、空海等,陪從而行.以學釋教.最澄,明年隨大使歸.空海,二十五年歸.松苗弟-西尾-惟苞,字叔茂.好學早歿.以其居臨真如堂,時或閲佛書.嘗曰:「俗傳,僧-空海,始唱本地垂跡、兩部習合之説.」余謂:「是奸僧所始,恐非空海也.」所謂本地,謂前身在彼.垂跡,謂後身在此.此兩部,謂神佛.習合,謂歸之同一體也.某太神本地即彌陀如來,勢至菩薩垂跡,即某太神之類.蓋傚清淨法行經及家墓因縁經.所謂閻浮堤中,有振且國.我遣三聖,在中化導人民.光淨菩薩,彼稱孔子.迦葉菩薩,彼稱老子.月光菩薩,彼稱顏回也.嗚呼!僧徒無忌憚!假託三明六通,輙説前身後身,以圖其利.既引儒入佛,又引皇國神明,以為釋氏末流.其詐固不待辨矣.其罪固不容誅矣.余固曰:「是説出自奸僧,恐非空海也.」若使空海實唱是説,則神明之大罪人耳,豈謂之高僧乎!
 贊曰:自神祖都於橿原,列聖遷徙,不常厥邑.蓋亦從衆所欲也.元明遷自藤原,定鼎平城.故其告諭王公,有殷宗五遷、周后三定之詔.聖武乘豐富,好侈大.或徙恭仁,或營難波紫香樂.然終不欲拂物情,還都平城,以迄光仁.衆志所嚮,略可賭矣.桓武帝英略,蓋世,恢量包荒.尋墜緒,舉廢典.祀於圓丘,以展敬天報之誠.征伐蝦夷,大奮干戈之威.蓋蝦夷之為種類,暴戾恣睢.急之則雲散,緩之則麕集.不有大懲,禍將不輟.帝善擇將帥,責以成功.斬獲酋長,獷俗讋服.恢弘祖宗之業,有光前烈.乃相攸奠居,遷都山城,新制平安之號,肇經國之洪猷.龜筮皆從,神人胥慶.據龍蟠虎踞之勢,建萬世不易之基.嗚呼,盛矣哉!然觀藤原-緒嗣之諫:「方今所苦.在兵與土木.」則征夷遷都,亦非無勞.而帝度德量力,為一勞永逸之舉,以措天下於泰山之安.茍非帝之英武明斷,則鮮能及之矣.
仏教に対して、実ははっきりで攻撃性な発言であった。但し、それは作者・巖垣松苗氏が杜撰した訳でもない、大体は正しな論評である。私が同時電子テキスト化する『日本霊異記』は、『日本国史略』と全く正反対な立場にある書物という実感があります。
 蘇我馬子の天皇暗殺や称徳女帝道鏡事件など、日本における仏教の問題は少ないではありません。但し、それは仏教全体がこういう問題を持つわけでもない。でも、『日本国史略』の批判姿勢はその一部の問題を仏教全体の問題、あるいは仏教全体がこうなる可能性は高いとして語られている。
 正直、私は『日本霊異記』が余り好きではない。かの本の宗教誘の意図が強すぎるから。例えば、「例えばあの人が本当に悪いだけど、仏を信じるなら罪にならない。」までは少ないのですが、「例えばあの人が本当に良い人だけど、仏を信じないから罰が落ちっても文句ないだろう!」はような説話は幾らでもあります。
 そういう場合、『日本国史略』がああいう話を「妖僧の邪説だ!」と批判して(但し、国史略では歴史上の事件だけを論評する、直接の霊異記批判がありません。)、言うまでもない『日本霊異記』との相性は凄く悪いと思います。(私も相性が悪いだけど。)前にも言うように、その論評は大体正しなモノでした。でも、仏教全体が絶対そうなるを言わなくても、「聖武・孝謙朝の弊害(この二柱の天皇方は仏を深く好んでいるから。)を改正する。*1」と聖武・孝謙朝の弊害の原因は「仏好きからこうなる。」に提示している。読者をこういう思考を導いている意図が込めている。
 何でそこまで仏教に対して攻撃の態度を持つのか、それは『日本国史略』は皇国史観によって書かれたものだから。歴史の人物・事件を、天皇を中心とする国体の発展・展開と取られる、天皇従順か反逆的かの尺度で評価するように書いたのである。それは北畠親房の『神皇正統記』から、尊王思想を鼓吹するように視点を置く、『日本外史』と共に尊王攘夷運動の志士かそれらの思想を認同する者の愛読書物ではないかと思ってます。なお、こういう史観は明治から終戦まで基本的歴史観として生きていた、明治年間成立の『日本国史略』は正しくその時代の感性を受継ぐしているのではないか。




■追申(12/25、AM:3:00)
何気なく『古今和歌集』の仮名序を中国語翻訳したくなります。
断然寝るほうがいいこの時間が、何故が仮名序の原文を整理しています。

■破魔矢 奉製作業、大忙し 三重猿田彦神社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051223-00000015-maip-soci.view-000
新年縁起物準備に巫女さん大忙し/秋田市太平山三吉神社
http://hyo-hen.web.infoseek.co.jp/sakigake-2005-12-24.jpg
日枝神社巫女の認証式
http://www2.knb.ne.jp/news/20051223_5615.htm
新年を迎える準備佳境に 六所神社
http://www.townnews.co.jp/020area_page/02_fri/02_oiso/2005_4/12_23/oiso_top2.html
以上、君子ハ豹変ス経由。



*1:主除聖武・孝謙二朝之習弊《二帝深好佛》、使改歸正。

2005/12/24

聖徳太子伝暦

2005-12-24-土 思兼ね今日たて初むる錦木の千束もまたで逢ふ由もがな

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菅家文草
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115 勸野營住學會
    李孔通家道不分 幾因才藝早知聞 菅尚書子寧非我 野相公孫獨有君
    龍去九霄曾宿水 鶴飛千里未離雲 縱無閉戶垂帷意 當會文宣享苾芬
    相公云云:謂先相公。
    當會云云:學中謂,時時來者,為釋奠學生。故云。
菅原道真菅家文草』巻第一0115

日本霊異記
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十七 未作畢捻埴像生呻音示奇表縁
 沙彌-信行者,紀伊國那賀郡彌氣里人.俗姓大伴連祖是也.捨俗自度,剃除鬢髮,著福田衣,求福行因.其里有一道場.號曰-彌氣山室堂.其村人等,造私之堂,故以為字.法名曰-慈氏禪定堂者.未作畢有捻埴像二體.彌勒菩薩之脅士也.臂手折落,居於鐘堂.檀越量曰:「斯像隱藏乎山淨處.」信行沙彌,常住其堂,打鐘為宗.見像未畢,猶以為患,落臂之者,以糸縛副,撫於像頂,每願之言:「當有聖人令得因緣.」淹逕數年,白壁天皇代寶龜二年辛亥秋七月中旬,從夜半有呻聲言:「痛哉,痛哉.」其音細小,如女人音,而長引呻.信行初思越山之人得頓病宿,即起巡坊,覓無病人.怪之嘿然.彼病呻音,累夜不息.不得乎忍.起窺見之,呻有鐘堂.實知,彼像.信行見之,一怪一悲.時左京元興寺沙門-豐慶,常住其堂.驚彼沙門,叩室戶白:「咄大法師,起應聞之矣.」具述呻狀.於玆,豐慶與信行,大怪大悲.率引知識,奉捻造畢.設會供養.今安置彌氣堂,以居乎彌勒脅士之菩薩是也.左大妙聲菩薩,右法音輪菩薩.誠知,願無不得,無願不果者,其斯謂之也..斯亦奇表之事也.

十八 奉寫法華經經師為邪婬以現得惡死報縁
 丹治比經師者,河內國丹治比郡人.姓丹治比,故以為字.其郡部內,有一道場.號曰-野中堂.有發願人,以寶龜二年辛亥夏六月,請其經師於其堂,奉寫法華經.女眾參集,以淨水加經之御墨.于時,未申之間,段雲雨降.避雨入堂,堂裏狹少,故經師與女眾居同處.爰經師婬心熾發,踞於孃脊.舉裳而婚.隨屌入膣,攜手俱死.屌,原門內牛字.膣,原門內也字.各指男女之性器也.唯女口漚嚙齧出而死.晰知,護法刑罰.愛欲之火,雖燋身心,而由婬心,不為穢行.愚人所貪,如蛾投火.所以律云:「弱眷自婬面門.」復涅槃經云:「知五欲法,無有歡樂.不得暫停.如犬齧枯骨,無飽厭期.」者,其斯謂也矣.
下巻、第十七、第十八を校了しました。

日本国史略・桓武天皇
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■ミノフスキークラブ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/1TO3RYUZT3IEQ/249-5771760-4649147
私がお薦めガンダム関連ブックの数々。

■(偽)ドラえもん最終話
http://csx.jp/~vaiosqare/doraemon/01.html
なんで今更...と思いました。
日本の場合は詳しく知りませんが、台湾では何年前ではこの(偽)最終話を流布しています。
もちろん、それは公式のものではない。公式の最終話は存在しません。
何故なら、ドラえもん原作者は新の大長編を描いている途中、亡くなりましたから。
シリーズ新作を描いた途中、事実上最終話の存在は勿論有り得ないこと。
但し、色々(偽)最終話が散佈していても、この(偽)最終話はまさに最高な感じが持ちました。
何年前、初めて観た当時も、確かに感動していました。
パロディとして、実はドンでもない良い出来たと思います。


トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20051224

2005-12-23-金 古里は春めきにけりみ吉野の御垣が原は霞こめたり

[]むかついてます。 むかついてます。を含むブックマーク むかついてます。のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

学校にはある事件が有ったため、今はむかついてます。
ある「世界遺産レベル程の良い人」の教授が生贄になりました、ということ。
http://tw.news.yahoo.com/051222/195/2ogxt.html
http://tw.news.yahoo.com/051222/39/2oh1f.html
敝校の校長選挙が、ああいう修羅場になりました。
新聞写真で加害人に見えるような方は、実は唯の正当防衛でしか有りませんが、
どうやら新聞で「不正」か「暴力行使」として仕上げられました。
本当の状況は、相手がマスコミを呼び寄って、拡声器まで用意した。会場を擾乱する気が言うまでもない。
そういう場合、主任秘書である呉教授は「のお帰りください」しか対応方がないのに、
相手は逆に一方的に暴力をふるようになって、呉教授は防衛しただけでこのような形に仕上げられました。
写真だけを観れば凄い形象になったけど、
事件のビデオを見れば呉教授がなにもしてない事は一目で判ると思います。
特に、呉教授が全然主動的に手を出すことがありません。
その後、呉教授は「此れが全て私の責任だ」と、主任秘書の辞職願を提出しました。

私も含めて、呉教授を知る人は「あの人限り、暴力行使は有り得ない。」と思うだろう。
優しくて、穏重で、どんでもない程な努力家でいい人。
例えば、一周三時間の授業は「これだけは足りない。」と、無給で自願に四時間に伸びること。
また、授業用の講義も自分で良く整理して、教科書より詳しいものを学生に挙げること。
また、携帯番号まで学生に知らさせて「何が質問があればいつでもどうぞ。」と仰ったこと。
また、学期試験の前は絶対、自分の研究室に居て、徹夜にも構わず学生の質問を解けること。
これほど学生思いの教授は他ならないと思います。
但し、彼の能力が強いが、権力に迎合することとは無縁な存在でもあります。

実は今の校長は余り好きじゃない、今度の校長選挙も不正が有ると思います。
ですが、せめて呉教授だけは悪いことが何もしてないのは本当であります。
今、主任秘書の辞職願を提出しましたが、それでもよいと思います。
何故なら、彼はこのような行政体系とは全く似合わない、人良すぎで今度みたいに良く負け組みになるでしょう。
教授の位階は未だ「助教授*1」で「教授」ではない、今度の事件が昇等の邪魔にならないように...


菅家文草
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114 小廊新成,聊以題壁
    數步新廊壁也釘 青烟竹下白沙庭 北偏小戶藏書閣 東向疏窗望月庭
    行路馬蹄斜側見 到門人語近前聽 自嫌塵客時言矣 促請山僧夜誦經
    分合終年開甕牖 猶勝竟日掩柴扄 掃除一室雖知足 未免衝泥又載星
菅原道真菅家文草』巻第一0114

日本霊異記
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十五 擊沙彌乞食以現得惡死報縁
 犬養宿禰-真老者,居住諾樂京活目陵北之佐岐村也.天骨邪見,厭惡乞者.當帝姬阿倍天皇之代,有一沙彌.就真老之門而乞食.真老不施乞物,返奪袈裟,諸見逼惱言:「汝曷僧也.」乞者答曰:「我是自度.」真老亦拍逐之,沙彌大恨而去.於其日夕,煮鯉寒凝.明日辰時起,居朝床,彼鯉含口,取酒將飲.自口黑血返吐傾臥.如幻絕氣,如寐命終.諒知,邪見切身之利劍.瞋心是招禍之疾鬼.慳貪受餓鬼之苦因.多欲障慈施之猛藪.唯見來乞者,可生憐愍,和顏悅色,法施財施.所以丈夫論云:「慳心多者,雖是泥土,重於金玉.悲心多者,雖施金玉,輕於草木.見乞人時,不忍言無,悲泣墮淚云云.」

十六 女人濫嫁飢子乳故得現報縁
 橫江臣成刀自女,越前加賀郡人也.天骨婬沃,濫嫁為宗.未盡丁齡,死淹歷年.紀伊國名草郡能應里之人,寂林法師,離之國家,經之他國,修法求道,而至加賀郡畝田村.逕年止住.奈良宮御宇大八嶋國白壁天皇世,光仁朝.寶龜元年庚戌冬十二月廿三日之夜夢見,從大和國鵈鵤聖德王宮前之路,指東而行.其路如鏡,廣一町許.直如墨繩.邊木草立.林佇看之,於草中有,大快肥女.裸衣而踞.兩乳脹大,如灶戶垂.自乳流膿.長跪以手押膝,臨之病乳而言:「痛乳乎?」呻吟苦病.林問:「汝何女?」答:「我有越前加賀大野鄉畝田村之橫江臣成人之母也我齡丁時,濫嫁邪婬,幼稚子棄,與壯夫俱寐.逕之多日,而子乳飢.唯子之中,成人甚飢.先由幼子飢乳之罪,故今受乳脹病之報.」問:「何脫此罪?」答:「成人知之,我罪免也.」林自夢驚醒,獨心怪思,巡彼里訊.於是有人答言:「當余是也.」林述於夢狀.成人聞之言:「我稚時離母不知.唯有我姊,能知事狀.」問姊之時,答:「實如語.我等母公,面姿姝妙,為男愛欲,濫嫁,惜乳不賜子乳.」爰諸子悲言:「我不思怨.何慈母君,受是苦罪.」造佛寫經,贖母之罪.法事已訖後,悟夢曰:「今我罪免之矣.」誠知,母兩甘乳,寔雖恩深,惜不哺育,返成殃罪.豈不令飲哉.
下巻、第十五、第十六を校了しました。

聖徳太子伝暦
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二、敏達天皇三十一代 諱,渟名倉太玉敷天皇.欽明天皇之太子也,橘豐日尊兄.磐余譯田宮.治十四年.
 元年,壬辰,正月,一日,妃巡宮中.到于廊下,不覺有產.女孺驚抱,疾入寢殿.妃亦無恙,安宿幄內.皇子驚,詢侍者,會庭.乎有赤黃光明,至西方,照耀殿內,良久而止.敏達天皇,猶居東宮.乍聞此異,命駕而問之.及殿戶,復有照光.天皇大異之.敕群臣曰:「此兒,後必有異於世.」即命有司,定大湯坐、若湯坐,而沐浴抱奉.天皇以褓受之,授皇后,皇后授父皇子,皇子亦授妃.妃披懷受,身體太香.
 三日之夕,天皇設宴,賜物群臣.七日,皇后設宴,賜物後宮.大臣以下相次獻饌,稱之養產.定嬭母三人,並採臣、連等女.夏四月後,太子能言能語,知人舉動.不妄啼泣,靈異有貴相.
 二年二歲,癸巳,春二月,始十五日平旦.合掌稽首東向,稱南無佛而再拜.不因人教,嬭母常禁,太子舉目睇,不依所制.七歲之後,此態永止焉.
 三年三歲,甲午,春三月,有桃華宴之旦.皇子與妃,率太子,遊於後園.太子在抱近皇子.皇子問曰:「吾兒何謂?樂桃花乎?樂松葉乎?」太子答曰:「松葉為賞.」皇子問之:「何以?」太子答之:「桃華,一旦之詠物.而松葉,萬年之壽木也.故為可賞之.」皇子撫頂,及抱之.其身太香,非世之所嗅.太子仰看皇子曰:「兒之入於御手也,如登百丈之巖,浮千尺之浪,太畏太危.」皇子大笑焉.
 四年四歲,乙未,春正月,皇子第中,會諸少年王子.有闘叫之聲.皇子聞之,設笞追召.諸王子等,皆悚逃竄.而太子,脫衣獨進.皇子問之:「兄弟不合,諸少兒等,輙以口闘.今欲笞誨.皆悉隱避.而汝何獨進乎?」太子合掌,對皇子并妃,低首啟曰:「不得立階於天而昇,不得穿穴於地而隱.故自進受笞.」皇子并妃大悅曰:「汝之岐嶷,非只今日.」妃披懷而抱.其身太香,香氣亦非常.妃乃尚加寵愛.
 五年五歲,丙申,春三月,天皇立豐御食炊屋姬尊為皇后.太子此日在嬭母懷,侍皇后前,群臣入拜.太子語嬭母曰:「大臣奉拜之前,放吾於膝.大臣及入也,太子於膝.太子自顧其身,調定衣裳,逡巡徐步,立大臣前,北面再拜.時年五歲.起伏之儀,有如成人.天皇、皇后,太加寵異.嬭母問太子曰:「吾皇子何以與群臣拜皇后乎?」太子密謂曰:「非汝之所知.是焉吾國天皇也.」遂如期言.
 秋八月,太子謂嬭母曰:「小子須習文書,何不持來筆墨耶?」嬭母諮皇子,即賜文筆書法.日別習書數千字.三年以後,學王右君書,既得骨體,流筆如龍.時人大異.
 六年六歲,丁酉,冬十月,遣百濟國大別王,將經論並律師、禪師、比丘尼等還來.由此奏狀.太子侍天皇床下,奏曰:「兒情欲見持來經論。」天皇問之:「何由?」太子奏曰:「兒昔在漢,往衡山.歷數十身,修行佛道.佛之垂教,非有非無.諸善奉行,諸惡莫作.故今欲見百濟所獻佛經、菩薩諸論.」天皇太奇問之:「汝年少六歲,常在朕前.何日在漢乎?」太子奏曰:「兒之前身.意有所慮.」天皇拍手,大異之.所聞群臣,亦大鳴舌拍手而奇之.
 七年七歲,戊戌,百濟經論數百卷持上來奏.
 春二月,太子燒香披見.日別一、二卷.至冬一遍了.又奏曰:「月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日,是為六齋.此日梵天、帝釋,降見國政.故禁殺生.是仁之基也.仁與聖,其心近矣.」天皇大悅,下敕天下:「此日令禁殺生之事.」
 八年八歲,己亥,冬十月,新羅國贈獻佛像.太子令皇子奏曰:「西國真人釋迦牟尼佛遺像也.末世尊之,則消禍蒙福.蔑之,則招災縮壽.兒讀佛經, 其旨微妙.望也崇貴佛像,如說修行.」天皇大悅,安置供養.
 九年九歲,庚子,夏六月,有人奏曰:「有土師連-八嶋,唱歌絕世.夜有人來,相和爭歌,音聲非常.八嶋異之,追尋至住吉濱.天曉入海.」者.太子侍側,奏曰:「是熒惑星也.」天皇大驚,問之:「何謂?」太子答曰:「天有五星,主五行、象五色.歲星色青,主東,是木.熒惑色赤,主南,是火.此星降化,為人遊童子間.好作謠歌,歌未然事.蓋是星歟.」天皇太喜.
 十年十歲,辛丑,春二月,蝦夷數千,寇於邊境.天皇召群臣,議爭討之事.於時太子侍側,竦耳左右,聞群臣論.天皇近召太子,詔曰:「汝意如何?」太子奏曰:「少兒何足議國家大事.然今群臣所議.皆滅眾生之事也.兒意以為,先召魁帥,重加教諭,取其重盟,放還本路.加賜重祿,奪其貪性.」天皇大悅,即敕群臣,召魁帥-綾糟等,詔曰:「唯儞蝦夷者,大足彥天皇之世,景行朝.合殺者斬,合赦者放.朕今遵彼前例,欲誅元惡.」於是,綾糟等怖懼,乃到泊瀨川,面三諸山而盟曰:「臣等蝦夷,自今以後,子子孫孫,用清明心,侍奉天闕.臣等若違盟者,天地諸神及天皇靈,絕滅臣種矣!」自此以後,時久而不犯邊.
 一年十一歲,壬寅,春二月,太子率童子三十六人,遊後園中.皇子修威,左侍二人,右侍二人,左立四人,右立四人.以十四人,庭前兩陣,共舉其音,令申各志.諸童子等,或以戲浪,或以私實,一共舉音,或長或短.太子居榻,仰首而聞,待了而答.一一反覆,句無一墮,復了即達,各以其志.如是數日,童子私歸,各告父母.父母私或作難辭而令語,太子亦能辨答,非凡心所及.皇子微行,稍聞其辭,多有不解.問妃曰:「吾兒殆非聖人耶?」又童子之中,力不能勝.弓石之戲,儕不能比.輕舉如雲氣,在數十丈虛中.疾走雷電,在前乎焉在後.身躰之香,亦非尋常.沐浴之後,皇子及妃,天皇、皇后,并後宮貴人等抱之時,妙香發起.一著人衣,數月不滅.佛陀加護故云云.
 十二年十二歲,癸卯,秋七月,百濟賢者-葦北達率-日羅,隨我朝使-吉備海部-羽嶋來朝.此人勇而有計,身有光明,如火焰.天皇詔,遣阿倍臣-目、物部-贄子大連、大伴-糟手子連等,問國政於日羅.太子聞日羅有異相者,奏天皇曰:「兒望,隨使臣等,往難波館,視彼為人.」天皇不許.太子密諮皇子,御微服,從諸童子,入館而見.日羅在床,望四觀者.指太子曰:「那童子也,是神人矣.」於時,太子服麁布衣,垢面戴繩,與馬飼兒,連肩而居.日羅遣人指引.太子驚去.日羅遙拜.脫履而走.諸大夫等其之,出門而見.即知太子.太子隱坐,易衣而出.日羅迎,兩段再拜.大夫亦驚,謝罪再拜,修儀而入.太子辭讓,直入日羅之房.日羅跪地,而合掌白曰:「敬禮救世觀世音,傳燈東方粟散王云云.」人不得聞.太子修容,打磬而謝.日羅大放身光,如火熾.太子眉間放光,如日輝.須臾即止焉.太子謂日羅曰:「子之命盡,可惜被害.聖人猶亦不免,吾亦如何.」清談終夕,人不得解.明日,太子還宮.
 十二月,晦夕,新羅人殺日羅.更蘇生曰:「此是我驅使奴等所為,非新羅也.」言畢而死.太子乍聞,語左右曰:「日羅聖人也.兒昔在漢,彼為弟子.常拜日天,故放光明.冤仇不離,斷命而賽.捨生之後,必生上天.」者.
 十三十三,甲辰,秋九月,彌勒石像一軀,百濟將來.蘇我大臣勸請其佛像,並於播磨國覔得狛僧-惠便之還俗,乃以為師,更度三尼.營佛殿於宅東,安置彌勒石像.屈請三尼,設大會齋,亦佛殿構立石川宅,每到敬禮.此時,司馬-達等,得佛舍利於齋食上.由是蘇我大臣並達等,深信佛法,修行不懈也.於是,大子時時潛行大臣之寺,散花供養.密命大臣曰:「吾昔修行,歷數十身.萬分之一,未得濟救.君之始貴,功德難測.譬如虛空,不可思量.吾雖幼稚,願以紹容,與君為緣.為善知識,傳如來教,建正幢蓋.」大臣謹奉,不敢墮緩焉.
 十四年十四歲,乙巳,春二月,蘇我大臣起塔於大野嶽北,大設齋會.太子備儀,臨而觀之.比及立要柱,合掌三拜,謂左右曰:「是佛舍利之器也.不置舍利,則不得為塔.釋迦如來滅度之後,碎骨舍利,應感而出.是如來加于外家,聖人豈遠乎.大臣不安舍利,此塔必仆.」大臣聞之,念感舍利.三七日後,齋食之上,得舍利一枚.大如胡麻.其色紅白,紫光四周.浮水不沉,穿半而居.投舍利於水,隨心所願,浮沉於水.鍜擊不碎,彌吐妙輝.馬子宿禰,試以舍利.置鐵鑕中,振鐵鎚打.其鑕與鎚,悉被摧壞.而舍利不摧毀.大臣納瑠璃壺,旦夕禮拜.舍利常懸壺內,或為二三,或為五六,無有定數.每夕吐光.太子臨而禮拜,謂大臣曰:「是為真形骨舍利.」大臣設會,安塔要柱下.此時,大臣有疾.卜祟,父時所祭神之心.即以狀奏聞.太子此日侍御床下.天皇謂太子曰:「我國之基,以神為主.而今大臣請祭異國之神,為之如何?」太子奏曰:「諸佛世尊,其道微妙.諸神隨之,不敢違佛.今大臣請興佛法,是國家之福矣.」即大臣承詔:「宜祭之.」大臣禮拜石像,乞延壽命.於是,國有疫疾,民死者眾焉.
 三月,物部弓削大連、中臣勝海連等,奏曰:「從先天皇,至于陛下.疫疾未息,人民可絕.良由蘇我大臣等興行佛法.」詔曰:「灼然.宜斷佛法.」太子奏曰:「二臣未識因果之理.修善福至,行惡禍來.是自然之理,如來之教也.兒聞,古之聖人,勝於大災故.有唐旱殷水之事.今之疫疾,以德可除.何更滅將興之法?能免將死之命耶?二臣如今,必蒙天禍.」二臣不聽,自詣於寺.斫倒堂塔,毀破佛像,縱火燔之.取所燒餘佛像,棄難波堀江.喚出三尼,奪其法服,就海石榴市之亭,並加笞辱.是日,無雲而大風雨.太子謂皇子曰:「禍始於此.」又發瘡死者,充滿國中.其幻瘡者言:「痛如燒斫.」老少竊相謂曰:「是燒佛像罪矣.」太子謂皇子曰:「如來之教,滅而更興,興而更滅.如今二臣破法之報,致此瘡疾.應祈請而脫之.」皇子與太子,擎香爐禮佛.
 夏六月,大臣-馬子宿禰奏曰:「臣疾久不愈,願猶憑三寶.」詔曰:「汝可獨行.唯斷餘人.」乃以三尼,更付大臣.大臣受而歡喜.太子賀之曰:「以大臣威,興此妙法.佛法初興,善哉善哉.」大臣新營精舍,供養三尼.佛法之初,自茲,遂興正法.

 不塞不流,不止不行,人其人,火其書,廬其居,明先王之道以道之,鰥寡孤獨廢疾者有養也,其亦庶乎其可也。


続く。




*1中国語で呉教授の位階は”副教授”です。要する教授に次ぐ職階。実は”副教授”を次ぐ職階には”助理教授”もあります。