2006/01/14

F・O・G デスクトップアクセサリー2006

2006-01-14-土 誰が此の數は定めし吾は唯十重とぞ思ふ山吹の花

[]実家 実家を含むブックマーク 実家のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

実家にいます。

■F・O・G デスクトップアクセサリー2006
http://www.fog.jp/main/products/dta/dta2006.htm


菅家文草
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/waka/kanke/bunsou/bunsou.htm
135 續前,其七
    少日偏孤凍且飢 長呼孔父濟窮兒 還家拜世何為檄 手捧芬芬桂一枝
    賀多信。
菅原道真菅家文草』巻第一0135

■田村草子
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/monogatari/tamura/tamura.htm
 と書きて、引き結びをき給ふ、少將とりて、左近助が元へ遣はしければ、よりかげ(人名か?)悦び、やがて將軍へ、御返事とて参らせければ、俊仁、嬉しくも恋ひの闇路の、し案内(るべ)せし物かなとて、左近の用言にそなされける、さて此後度度御文重なり、忍び偲びの御契り淺からざりしに、御門此よしきこしめ御歌合に言寄せて召上げられ、其れより返し給はずして、俊仁をは伊豆の國へ流させ給ふ、俊仁口惜しく思ひながら、力無く、遠流(をんる)の道におき向き給ふ、心の程こそ哀れなる、去る程に、近江の國瀬田の橋を渡るとて、橋桁(はしげた)粗(あら)く踏鳴(ふみな)らし、俊仁こそ只今流人と成りて、東國へ降るなれば、見馴川にて殺せし大蛇共の困惑(こんわく)あらば、都に上り心のままにせよと言ひ捨てて下り給ふ、去る程に其比、都の当たりにて、人多く失(う)せて、行かたしらす成にけり、日のくるれは門戸を閉ぢて、聲を立る事も無し、晝は行かふ道堪えて淺茅河原川原(あさぢかはら)とそ成にける、天文博士(てんもんはかせ)に仰て、考へ給ふに、俊仁將軍を召し返し給はすは、しつまるましきよし、相聞(そうもん)申ければ、やがて赦免(しやめん)の綸旨(りんし)下り、二度上洛し給ひて、又瀬田の橋を通るとて、俊仁こそ、赦免の綸旨を給はりて、只今上るなれ、大蛇共都当たりに敵ふましとて、其日都も着き給ふ、洛中静かに成り、萬民悦びの色を成す、御門御勘(かん)ましまして、やがて照日の前を下されて、比翼の契りを成し給ひ。姫君二人意的(いてき)給ひて、斎傅(いつきかしづ)き給ふに、或る時、俊仁、参内おはしけるに、折ふし内裏には、管弦(くはんげん)の御宥(ゆふ)有けるを、聴聞(ちやうもん)して坐(おは)しける間に、辻(つぢ)風荒く吹落ちて、照日の前を天に吹き上げたり、此由將軍へ申上ければ、急ぎ我家に歸り、こは如何なる事やらんと、嘆き給へとも甲斐もなし、余の悲しさに、せめては夢になりとも今一度、見参らせばやとて、少し微睡(まどろみ)給へば、年の程十二三ばかりなる童(はらは)三人、連れて行けるか、先なる童の言ひけるは、其れ日本は粟散邊地(そくさんへんち)の小國也と言へ共、神國たる故(ゆへ)に、人の心素直(すなを)にして長久也。然共萬人の心有れば、天魔(てんま)の業はひありと言ひ伝へけるこそ、誠に不思議なれ、俊仁將軍は、弓矢の譽れ世に優れ、鬼神も恐(をそ)れしたがふ程の人なるに、此程寵愛(てうあひ)の妻を辻風に取られて、嘆き悲しむと也。あれ程の武將として、生(い)ひ甲斐無き事よと笑ひければ、中なる童(わらは)も、誠に海山を探しても取り返さずしては、生ける甲斐無き事よと言へば、跡なる物の云、其れは去事なれ共行衛を知らすは如何せん。去りながら俊仁程の者が、天狗共を捕らへてとふならば、恐れて有所云べき物をとて笑ひける。
 其の聲に夢醒めて、當たりを見れば人もなし、扨は佛神の御告げそと有難(ありがた)く思ひ、八幡(まん)大菩薩(ぼさつ)つにきせひ申、先愛宕山に登り、恐惶坊(きやうくはうはう)は内に御座(おは)しますか、天下の大將軍俊仁是まで参りたりと仰ければ、刹那か間に、宮殿(くうでん)、樓閣(ろうかく)、玉の臺(うてな)に至(いた)り、ややありて、八十余りなる老僧、弟子(でし)共に手を引かれて、蹣跚(よろぼ)ひ出て、何の御用にて御出候とて、膝の上まで懸かりたる瞼(まぶた)を、弟子に引あけさせけるを、俊仁是まで参る事、世の儀に非ず、某(それかし)女にて候ものを、此程失ひて候、定てしろしめさるべし、御弟子の中にも候ならば返し度候へ、何様行く末を御存候べし、教へて給はれと仰ければ、恐惶坊聞きて、是は思ひも寄らぬ事を承候、弟子共の中にも候はず、東山の三郎坊か方にも候はず、但是より御歸返ずる道に、伏木の有べし、是そ教へ申べし、詳しく御尋あれと言ひ捨てて、掻き消す様に失(う)せければ、急ぎ歸り見給ふに、申つることく谷川に打渡して、大なる伏木の橋在り、立より、荒(あら)けなく踏鳴らし、如何に汝に物とはんと仰ければ、暫くあつて、此木動くかと見えて頭いでき、首を三間はかり持ち上げて、人にものとふとて去事やある、教へしと思へとも、汝が母は我為には妹なれは教(をし)ゆるそ、わ殿(との)は女を失ひて尋るよな、其れは此邊には有べからず、陸奥(むつ)國高山の悪路王(あくるわう)と言ふ鬼か取たるなり、凡夫(ぼんぶ)の身にては敵ひ難し、鞍馬(くらま)の大ひたもんでんの、御力を頼み奉りて、斯の鬼神(きじん)を従へ、しよ人の憂(うれ)へを、御身か母、益田ヶ池の主也しが、假に人界に生まれる縁(えん)に引かれて成佛せり、我は今だ強引(ごういん)深くして、邪神(じゃしん)の思ひ付きせず、我為に善根を無し、邪道(じゃだう)の苦しひを助け給へと、言ふ言葉は残り、形は消えて失せたりけえい。俊仁哀れに思召、一萬部の法華經を讀み、千石千貫を千人の僧に引給へば、其功力(くりき)にて、やかて成佛して、不思議の事共大かりけり、斯くて、俊仁は鞍馬へ参り、三七日篭り給ひて、慢(まん)ずるとらの一天に、甲冑(かつちう)を対して、几帳(きちやう)を打上げ、汝如何に遅きそと諌め給ふに、打驚きて見れば、枕に劍を立て有けり、さてはしよくはん成就(じゃうじゆ)、有難く思ひて、急き陸奧國へ足(ぞく)たり給ふ、其の比妻子を失ふ人數を知らず、中にも二條大將殿御姫君、三條中納言北の御方、美濃の泉司(せんじ)、河内判官、斯くの如くの人人は、假令(たとひ)千尋の底までなりとも、有かと谷(だに)もきかば尋んと、大示(おほしめ)す折伏なれば、或るひは浦堂(うらどう)を下(くだ)し、又は自ら下る人も有り、思ひ思ひの出立華(はな)やかにこそ見えたりけれ、去程に日課(か)すつもりて、陸奧國初瀬の郡田村の郷に着き給ふ、頃は七月下旬(じゆん)の事なるに、賤女(しつのめ)の業(わさ)田にかくるなるこなは、惹かるる心浅からて、一夜の情けを掛け給ひて、もし忘れ形見も有ならば、是を徴(しるし)に尋ね来よとて、上差(さ)しの鏑矢一給はりて立給ふ。去程に、斯の悪路王かじあうくはく近付きければ、駒掛(こまかけ)寄せ見給へば、赤金(あかかね)の築地(つゐぢ)を着き回し、鉄(くろがね)の門を四方に立て、番(ばん)を嚴しく固めたり、東表(おもて)の門前に、忍ひよりて見れば、年の程十五六ばかりなる女童の、打絞(しほ)れて涙に咽(むせ)び、門外に佇(たたず)みたるを、己は何者ぞ問ひ給へば、是は美濃の泉司が娘にて候(さふらふ)か、十三にて此所に囚はれ、 三年が間、門守りの女と定められて候とて、さめざめとなく、俊仁聞き給ひて、泉司も來りたるぞ、都へ具(ぐ)して行くべしとて、先みだい所の御事を問ひ給ふに、暫しく走り候(さふら)はず、但し二三日以前までは、御聲の聞こへたると申、俊仁心元無く思召、鬼は内に有りかと問ひ給ふ、此比越前の方へ参りたると申、扨此の門の内へは何として入と仰せければ、あれに候柳小間(りうのこま)乗りて内へ入、門を開きて、眷族(けんぞく)共を場入(ばい)れ候と申ければ。

■27歳無職男、自宅に放火 母がフィギュアを買ってくれなかったから
 十三日午前一時三十五分ごろ、深谷市稲荷町の会社員、市川貴男さん(五六)方から出火、木造二階建て住宅約百十五平方メートルが全焼した。けが人はいなかった。
 約三時間四十五分後、熊谷市桜木町熊谷駅南口交番市川さんの長男が「自宅に放火した」と出頭。現住建造物等放火の疑いで無職市川寛幸容疑者(二七)を逮捕した。
 調べに対し、寛幸容疑者は「欲しかったフィギュア人形)を母が買ってくれなかったことから口論となり、腹いせにライターで火をつけて家を出た」と供述。
 市川さんは三人暮らしで出火当時、貴男さんは出張で、貴男さんの妻(五二)は不在だった。
http://www.sankei.co.jp/edit/kenban/saitama/060114/kiji01.html
見ながら「いっぺん、死んでみる?」と言いたいくらい...


トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20060114

2006-01-13-金 萬代を呼ばふ山邊の亥の子こそ君が仕ふる齢なるべし

[]本業の方。 本業の方。を含むブックマーク 本業の方。のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

試運轉中。
http://applepig.idv.tw/kuon/lab/
出来上がったら本当のアドレスに移行する予定です。

菅家文草
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/waka/kanke/bunsou/bunsou.htm
134 續前,其六
    人共賀君我獨傷 曾知對策若風霜 龍門此日平三尺 努力前途萬仞強
    賀田絃。
菅原道真菅家文草』巻第一0134

聖徳太子伝暦
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/seitoku/denreki.htm
 十七年三十八歲,己巳,夏四月八日,太子始製勝鬘經疏.
 此月,百濟僧-道欣等十人,流著肥後國.聞太子風,情願留住.仍安置元興寺.太子召入於斑鳩宮,問之,以過去宿身之事.十僧辭謝.垂淚.密語等儕曰:「上人等何無天眼乎.此太子是衡山般若臺東房第一念禪比丘也.吾等與盧嶽道人,時時拜謁,聞其說法華一乘妙義者也.」太子聞之,謂左右曰:「是實也.」
 秋九月,小野臣-妹子,到自隋.啟太子曰:「臣屆衡山般若豪.先逢三僧,二口遷化,一口猶存.謂臣曰:『初年沙彌誤取他僧所持之經,授子竟.而去年秋時,子國太子,元念禪法師,駕青龍車,從五百人,到自東方,履空而來.探舊房裏,取一卷經,凌虛而去.仍留此法華經五卷義疏.名-上宮疏.』」太子微咲而默.

年賀状コーナー
http://applepig.idv.tw/kuon/special/contribution/mimai/2666ny/2666_ny.htm
画廊連合秘密本部のごぢうり様からの年賀イラストを頂きました。
実は既に年賀イラストを貰いましたが、今度はMP物に変更しました。

メモ
http://www.otbooks.com.tw/
ここで『日本女性服飾史』、『原色日本服飾史』についてを聞いてみたが、返事が未だ...

0 件のコメント:

コメントを投稿