2005-06-24-金 是神風伊勢国則常世之浪帰国也.傍国可怜国也,欲居是国.
■[趣味雑談]式年遷宮 編集
式年遷宮について、判らない筈がないけれど、実は余り詳しくなかったんです。何で詳しくなかったんでしょうか、それは『日本書紀』にはその記録が見当たらないから。
神宮式年遷宮(じんぐう しきねん せんぐう)は伊勢神宮の式年遷宮のことである。伊勢神宮では、20年ごとに内宮・外宮の御正殿を始め全ての建物・鳥居・宇治橋を建て替え、御神宝も造り替える。そして、ご神体も新神殿に遷る。20年ごとに行なわれる。690年、持統天皇の御代に始まり、戦国時代などの中断期を除き、1993年の第61回式年遷宮まで連綿と続けられてきており、現在、第62回神宮式年遷宮の各行事が進行中で2013年には、正遷宮(神体の渡御)が予定されている。
0685年(天武14年):式遷の制を制定
0690年(持統4年):第1回内宮式遷(686年説もある。)
0692年(持統6年):第1回外宮式遷(687年説もある。)
0709年(和銅2年):第2回内宮式遷(元明)
0711年(和銅4年):第2回外宮式遷(同)
0729年(天平元年):第3回内宮式遷(聖武)
0732年(天平4年):第3回外宮式遷(同)
0747年(天平19年)9月:第4回内宮式遷(同)
0749年(天平勝宝元年):第4回外宮式遷(孝謙)
0766年(天平神護2年):第5回内宮式遷(称徳)
0768年(神護景雲2年):第5回外宮式遷(同)
0785年(延暦4年)9月18日:第6回内宮式遷(桓武)
0787年(延暦6年):第6回外宮式遷(同)
0810年(弘仁元年)9月:第7回内宮式遷(嵯峨)
0812年(弘仁3年)9月:第7回外宮式遷(同)
0829年(天長6年)9月:第8回内宮式遷(淳和)
0831年(天長8年)9月:第8回外宮式遷(同)
0849年(嘉祥2年)9月:第9回内宮式遷(仁明)
0851年(仁寿元年)9月:第9回外宮式遷(文徳)
0868年(貞観10年)9月:第10回内宮式遷(清和)
0870年(貞観12年)9月:第10回外宮式遷(同)
0886年(仁和2年)9月:第11回内宮式遷(光孝)
0889年(寛平元年)10月:第11回外宮式遷(宇多)
0905年(延喜5年)9月:第12回内宮式遷(醍醐)
0907年(延喜7年):第12回外宮式遷(同)
0924年(延長2年)9月:第13回内宮式遷(同)
0926年(延長4年)9月:第13回外宮式遷(同)
0943年(天慶6年)9月:第14回内宮式遷(朱雀)
0945年(天慶8年)12月:第14回外宮式遷(同)
0962年(応和2年)9月:第15回内宮式遷(村上)
0964年(康保元年)9月:第15回外宮式遷(同)
0981年(天元4年)9月17日:第16回内宮式遷(円融)
0983年(永観元年)9月:第16回外宮式遷(同)
1000年(長保2年)9月16日:第17回内宮式遷(一条)
1002年(長保4年)9月:第17回外宮式遷(同)
1019年(寛仁3年)9月17日:第18回内宮式遷(後一条)
1021年(治安元年)9月16日:第18回外宮式遷(同)
1038年(長暦2年)9月16日:第19回内宮式遷(後朱雀)
1040年(長久元年)9月15日:第19回外宮式遷(同)
1057年(天喜5年)9月:第20回内宮式遷(後冷泉)
1059年(康平2年)9月:第20回外宮式遷(同)
1076年(承保3年):第21回内宮式遷(白河)
1078年(承暦2年):第21回外宮式遷(同)
1095年(嘉保2年)9月:第22回内宮式遷(堀河)
1097年(承徳元年)9月:第22回外宮式遷(同)
1114年(永久2年)9月16日:第23回内宮式遷(鳥羽)
1116年(永久4年)9月:第23回外宮式遷(同)
1133年(長承2年)9月16日:第24回内宮式遷(崇徳)
1135年(保延元年)9月:第24回外宮式遷(同)
1152年(仁平2年)9月:第25回内宮式遷(近衛)
1154年(久寿元年)9月:第25回外宮式遷(同)
1171年(承安元年):第26回内宮式遷(高倉)
1173年(承安3年):第26回外宮式遷(同)
1190年(建久元年)9月16日:第27回内宮式遷(後鳥羽)
1192年(建久3年)9月:第27回外宮式遷(同)
1209年(承元3年)9月16日:第28回内宮式遷(土御門)
1211年(建暦元年)9月:第28回外宮式遷(順徳)
1228年(安貞2年)9月16日:第29回内宮式遷(後堀河)
1230年(寛喜2年):第29回外宮式遷(同)
1247年(宝治元年)9月16日:第30回内宮式遷(後深草)
1249年(建長元年)9月26日:第30回外宮式遷(同)
1266年(文永3年)9月16日:第31回内宮式遷(亀山)
1268年(文永5年)9月15日:第31回外宮式遷(同)
1285年(弘安8年)9月16日:第32回内宮式遷(後宇多)
1287年(弘安10年)9月18日:第32回外宮式遷(同)
1304年(嘉元2年)12月22日:第33回内宮式遷(後二条)
1306年(徳治元年)12月20日:第33回外宮式遷(同)
1323年(元亨3年)9月16日:第34回内宮式遷(後醍醐)
1325年(正中2年)9月16日:第34回外宮式遷(同)
1343年(興国4/康永2年)12月28日:第35回内宮式遷(後村上/光明)
1345年(興国6/貞和元年)12月27日:第35回外宮式遷(同/同)
1364年(正平19/貞治3年)2月16日:第36回内宮式遷(同/後光厳)
1380年(天授6/康暦2年)9月8日:第36回外宮式遷(後亀山/後円融)
1391年(元中8/明徳2年)12月20日:第37回内宮式遷(同/後小松)
1400年(応永7年)2月28日:第37回外宮式遷(後小松)
1411年(応永18年)12月:第38回内宮式遷(同)
1419年(応永26年)12月21日:第38回外宮式遷(称光)
1431年(永享3年)12月20日:第39回内宮式遷(後花園)
1434年(永享6年)9月23日:第39回外宮式遷(同)
1462年(寛正3年)12月27日:第40回内宮式遷(同)
1563年(永禄6年)9月23日:第40回外宮式遷(正親町)
1585年(天正13年)10月13日:第41回内宮式遷(同)
1585年(天正13年)10月15日:第41回外宮式遷(同)
1609年(慶長14年)9月21日:第42回内宮式遷(後陽成)
1609年(慶長14年)9月27日:第42回外宮式遷(同)
1629年(寛永6年)9月21日:第43回内宮式遷(後水尾)
1629年(寛永6年)9月23日:第43回外宮式遷(同)
1649年(慶安2年)9月25日:第44回内宮式遷(後光明)
1649年(慶安2年)9月27日:第44回外宮式遷(同)
1669年(寛文9年)9月26日:第45回内宮式遷(霊元)
1669年(寛文9年)9月28日:第45回外宮式遷(同)
1689年(元禄2年)9月10日:第46回内宮式遷(東山)
1689年(元禄2年)9月13日:第46回外宮式遷(同)
1709年(宝永6年)9月2日:第47回内宮式遷(中御門)
1709年(宝永6年)9月5日:第47回外宮式遷(同)
1729年(享保14年)9月3日:第48回内宮式遷(同)
1729年(享保14年)9月6日:第48回外宮式遷(同)
1749年(寛延2年)9月1日:第49回内宮式遷(桃園)
1749年(寛延2年)9月4日:第49回外宮式遷(同)
1769年(明和6年)9月3日:第50回内宮式遷(後桜町)
1769年(明和6年)9月6日:第50回外宮式遷(同)
1789年(寛政1年)9月1日:第51回内宮式遷(光格)
1789年(寛政元年)9月4日:第51回外宮式遷(同)
1809年(文化6年)10月16日:第52回内宮式遷(同)
1809年(文化6年)10月16日:第52回外宮式遷(同)
1829年(文政12年)9月2日:第53回内宮式遷(仁孝)
1829年(文政12年)9月5日:第53回外宮式遷(同)
1849年(嘉永2年)9月2日:第54回内宮式遷(孝明)
1849年(嘉永2年)9月5日:第54回外宮式遷(同)
1869年(明治2年)9月4日:第55回内宮式遷(明治)
1869年(明治2年)9月7日:第55回外宮式遷(同)
1889年(明治22年)10月2日:第56回内宮式遷(同)
1889年(明治22年)10月5日:第56回外宮式遷(同)
1909年(明治42年)10月2日:第57回内宮式遷(同)
1909年(明治42年)10月5日:第57回外宮式遷(同)
1929年(昭和4年)10月2日:第58回内宮式遷(昭和)
1929年(昭和4年)10月5日:第58回外宮式遷(同)
1949年(昭和24年):第59回式遷延期、宇治橋架け替えのみ実施。
1953年(昭和28年)10月2日:第59回内宮式遷(同)
1953年(昭和28年)10月5日:第59回外宮式遷(同)
1973年(昭和48年)10月2日:第60回内宮式遷(同)
1973年(昭和48年)10月5日:第60回外宮式遷(同)
1993年(平成5年)10月2日:第61回内宮式遷(今上)
1993年(平成5年)10月5日:第61回外宮式遷(同)
2013年(平成25年):第62回式遷(予定)
http://www.sengu.info/
http://isenet.jp/senguu/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE
式年遷宮という制度の制定は、天武天皇十四年に定められ、持統天皇四年に第1回目の遷宮が行われたという、また、遷宮は造營方法を保存するための制度とも言われてます。
http://www.sunshine.ne.jp/~jupiter/FBR2.htm
調べてみると、式年遷宮という制度の制定の記録は『太神宮諸雑事記』*1によるものです。でも、『日本書紀』の天武天皇紀も持統天皇紀もこの記録を見当たらずなので興味深いところです。
余談ですが、『朝霧の巫女』では唯一巫女の気品が持つ方・日瑠子陛下の言葉を借りて:
...この伊勢は、式年遷宮により古い殿舍を捨て新宮に移ることで生まれ変わり
美しく莊重に保たれています。
ですが、我が国は現世はどうでしょうか
ここは捨てられ緩慢に朽ちるばかりの世界でないか
神々はとうに別の世界へその座所を移されたのではないか、そう思える時があります。
天照大神からは久しく何のお言葉も賜われでないでいます
──今や、世界は孤独な金魚の缽のよう、
水は干上がり、その虚には、自身の張り裂ける声で埋められて行く
私には、それがとても重たく、つらい......
『朝霧の巫女』巻四より
余談の余談、実は『古語拾遺』にも、神・人の境界が遠くなる事を嘆く話があります。
前件神代之事、説似盤古。疑冰之意、取信寔難。然我國家、神物靈蹤、今皆見存、觸事有效、不可謂虚。但中古尚朴、禮樂未明、制事垂法、遺漏多矣。方今聖運初啓、照堯暉於八洲。寶暦惟新、蕩舜波於四海。易鄙俗於往代、改紕政於當年。隨時垂制、流萬葉之英風。興廢繼絶、補千載之闕典。若當此造式之年、不制彼望秩之禮、竊恐後之見今、猶今之見古矣。ところで、白陛下のその雰囲気と気品...ロリでなければ本当にハマしちゃうかも(汗)。
『古語拾遺』より
久遠の絆平安編には、高原万葉の前世たる螢も、そうらしきセリフがあった。
言葉を変えて言えば、リアルの世界ではこんな思想を持つ女性が居れば惚れちゃうかも...
が、日瑠子と言えばやっぱり蛭子(ひるこ)と連想してなんか不祥な予感がします...
でも、もし『ホツマツタヱ』の和歌姫(=ひるこ)ならいいけれど...
宇河弘樹氏は古史古伝も詳しいのようでこのように期待してもいいでしょうか?
おまけ
伊勢内宮神前祝詞
神風の伊勢國 折鈴五十鈴原の 底津石根に 大宮柱太敷立 高天原に 比木高知て
鎮座坐す掛巻も稜に 尊き天照皇大御神 亦の御称は憧賢木厳之御魂天疎向津比売之命
亦の御号は天照大日霊之命の 大朝廷を祝斎を 云巻も畏加礼ど
天津日嗣知食皇命の 大御代を 常磐に 堅磐に 護り
奉給ひ 現き青人草をも 恵み幸へ給へる 広く厚き御恩頼に 報ひ奉ると
称辞竟奉りて 拝み奉る状を 平けく 安けく 聞食と 恐み 恐みも 白す
伊勢外宮神前祝詞
神風の伊勢國 渡会の山田の原の 底津石根に 大宮柱太敷立 高天原に 千木高知て
鎮り座坐す 外宮豊受皇大神 亦の御号は保食大神とも 稲荷大神とも 申奉りて
蒼生等が 喰て生べき五穀を始め 諸諸の食物衣物に至る及に 生幸へ給ふ
広く厚き御恵に 報い奉ると 称辞竟奉て 拝み奉る状を
平けく安けく聞食と 恐み 恐みも 白す
実は明日はまだ試験があるので今日はこの辺で(死)...
■[趣味雑談]メモ 編集
不愉快なオタプロフィールhttp://d.hatena.ne.jp/prinkun/20050623/1119562545
一理ある、皆に参考としてBOOK MARKします。
「自分のツラが曲がっているのに鏡を責めて何になる...」という言葉もありますが。
ちなみに返句の「鏡は悟りの具に非ず、迷いの具なり。」は斎藤緑雨『緑雨警語』からの引用文です。
続・オタクリストラについて
http://d.hatena.ne.jp/akiha-cheki/20050622#p1
ちぇきのすさんの見解。自分の考え方と随分違うみたい。
実は「刹那的に消費する」とか「流行の最先端に付いている」をミーハーと定義するのは私の考え方です。
もっとも、社会の流行に流さずのはオタクの特点の一つではないか、と思います。
「僕の興味って普通の人には理解できないよね...」という自嘲と自慢を並行する話もある。*2
しかし、オタクもオタクの流行が有るのは、最近が特に明らかになります。
オタクに対する、私は岡田斗司夫氏の解釈を一部採用したのですが、
岡田氏のオタク像は美化過ぎるため、全部岡田氏の言う通りと思ってません。
でも、オタクに「匠の眼」「粋の眼」「通の眼」が持って欲しいんです。
USO9000さんの日記とBBSを観て、この辺に関わってUSO9000さんとの考え方は大体合います。
実は最初から公式の解釈が無かったの。でも、人それぞれの解釈がある方がいいと思います。*3
附筆、『オタク学入門』のオンライン版は此方。*4
2005-06-23-木 倭方に 西風吹き上げて 雲離れ そき居りとも 我忘れめや
■[趣味雑談]古事記 編集
前述のオタクに付いてを書きたいのですが、余り時間がないので次の機会に譲ります。ところで、さっきはある中国語のBBSで『古事記』『日本書紀』についてを
少々言ったのですが、中国語で書いたものだけど敢えて此処で刊載します。
雖然個人對『古事記』的成立經緯仍舊存疑,興味がある人だけにご覧ください。
不過可以確定的是該書本身絕非維新之後才寫出來的。
『古事記』雖然在序文中聲稱是天武天皇所下令編纂,
不過在正式的史料上卻無此記載,甚至沒有稗田阿禮的紀錄,
就個人的觀點,其序文是否為真,其實有待考量。
- 夫日本紀者、一品舎人親王、従四位下勲五等太朝臣安麻呂等、王子神八井耳命之後也。奉勅所撰也。先是、浄御原.天武.天皇御宇之日、有一舎人、姓-稗田、名-阿礼、年廿八。天鈿女命之後也。為人謹格、聞見聴慧。天皇勅阿礼、使習帝王本紀及先代旧事、末令撰録、世運遷代、豊国成姫.元明.天皇臨軒之季、詔正五位上安麻呂、俾撰阿礼所誦之言。和銅五年正月廿八日、初上彼書、所謂『古事記』三巻者也。
多人長『弘仁私記』序,是最早言及『古事記』的文字,
『弘仁私記』本名『日本書紀私記』為講述『日本書紀』的講書,
成立於弘仁三年(1082)年,由此觀之,可以肯定『古事記』
就算不是成立於序中所述的712年,也絕非是維新之後所創。
就仮名遣來看,古事記確實比日本書紀還早,
不過是否為天武下令編纂的,在考慮序文也許是偽作下,沒有卻確證據。
而且多人長是太安萬侶的子孫,藉此提高一族聲望的可能也是有的。
其後江戸時期學者本居宣長著『古事記伝』,同樣是在維新之前。
在『舊事本紀』被證明是平安時代的偽書之後,為了補這個缺,
『古事記』的地位因而被提高,更因『古事記伝』而被尊為神典。
不過,要說在維新之後的變動,大概是右翼国學者對其文字的曲解。
例如神武詔令中「掩八弘而為宇」解釋為「八弘一宇」統一世界。
不過實際上八弘除了天下經綸,也暗示八大洲國(日本),當時應當是沒有全世界的概念的。
先不提『古事記』,可以確定『日本書紀』是為了聲張天武天皇的正統性而編的。
天武天皇發動壬申之亂登上帝位,如果不修史,恐怕會被後人閒言閒語。
其中包括天武天皇曾任東宮(太子),以及自願讓位卻被大友皇子猜忌等等,
都有可能是『日本書紀』中為了合理化天武天皇的皇統而下的改竄。
可以肯定的是該書抹煞了大友皇子的即位紀録,也是撰寫書紀的主要目的。
此外,在壬申之亂的紀録中,有些描述的氣氛和神武東征頗像,
同樣是為了表明天武天皇繼承皇位的正當性而為。
如果『古事記』的成立原因如其序文所示,則原因也大致在此。
鬼魂 サウンドトラック
http://www.knsent.com/music/33.htm
これ以前は特典として一部しか発売ありません。歌詞と祓詞のために買おうか?(汗)
メインは歌詞の方が興味あります。友人の誰かが買いそうなので先ずは観望。
>川村ゆみ氏が歌うテーマソングはもちろん!
>逢坂泉ヴォーカルバージョンの主題歌も特別収録!!鬼魂サウンドトラック
逢坂泉...もちろん狩野月ヴォーカルバージョンの方が...
嘘ニューズ...多分・萌えネーム、ドイツを席巻 (■ Beyond the Air Weblog Area ■より)
http://www9.cds.ne.jp/~yunosuke/blog/index.php?UID=1116409916
ネタです。本当だったら
kuonkizuna 2005/06/25 11:00 実は「蛭子」を「昼子」と表記することも可能なので、日神の性質が有ると思います。速瀬織津比賣みたいに記紀に弱化された元日神かもしれません。ところで、日瑠子陛下の目的を考えばその死後の諡号は多分「天」とか「神」とかを込めると思います。日本書紀を観るたびに、「天武天皇」の敘述が「神武天皇」を見立ての性格が強いです。
akiha-cheki 2005/06/27 05:42 私の定義は注意書きの3のサイトで挙げられてるモノに近いですね。その分類では私自身はファンとオタクの間くらいになるのかな?ソレとは別に、マニアの方が特定の方向に特化した専門家、オタクは汎用性のあるオールラウンダーってイメージがあります。ミーハーなマニアはありえないけど、ミーハーなオタクならありえる、そんな感じです。
kuonkizuna 2005/06/27 08:18 ええ、記憶では元初のオタク(例えばスタジオぬえの人々たち)はミーハーと違いと思いますが、最近は大体ミーハーと同じと思います。
オタクの間では、「ファン→マニア→オタク」という三段階のダメ人間レベルがありますけど、こっちのオタクもミーハーと違うと思います。何故ならマニアの段階を経験した人はミーハーに成ることはほぼ無理だと思います。
岡田氏は特にミーハーとオタクを區別したいんように見えますわ。少なくとも今、世間一般はマニアの方がより好印象的。オタキングと呼ばれる時代のことでしたけれど。『オタク学入門』を観るたびに、嫌味が一つ二つ覚えるの原因は、マニア性のオタクとミーハー性のオタクを一緒に高い評価を与えたのではないかと思います。