2005-05-16-月 偽書なのか?
■[趣味雑談]偽書 編集
偽書の事ですが、普通の偽書ではなく、先代旧事本紀の序の話です。
先日、『先代旧事本紀の復権』を少々読む事にした。(ですから修羅場モード続くという自業自得が...)
興味深いところ、それは『先代旧事本紀』の「序」は一体、何時から付けたのでしょうか?
先代旧事本紀序ご覧通り、明らかにこの序は偽物である。なにより蘇我馬子が自分で「天皇を弒す」など言い筈がありません。
大臣蘇我馬子宿禰等奉勅修撰
夫先代旧事本紀者,聖德太子且所撰也.
于時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇,即位廿八年,
歳次庚辰,春二月甲午朔戊戌.攝政上宮廄戸豊聰耳聖德太子尊命.
大臣蘇我馬子宿禰等,奉勅撰定.宜録先代旧事,上古國紀,神代本紀,神祇本紀,天孫本紀,天皇本紀,諸王本紀,臣連本紀,伴造國造百八十部公民本紀者,謹據勅旨.
因循古記,太子為儒,釈説次録.而修撰未竟,太子薨矣,撰録之事輟而不續.
因斯且所撰定神皇系図一卷,先代國記,神皇本紀,臣連伴造國造本紀十卷.號曰-先代旧事本紀.
所謂先代旧事本紀者,蓋聞開闢以降,當代以往者也.其諸皇王子百八十部公民本紀者.更待後勅可撰録.
于時卅年,歳次壬午春二月朔己丑是也.凡厥修撰題目,顯録如下.
神皇系図一卷
先代旧事本紀十卷
第一卷 神代本紀 陰陽本紀
第二卷 神祇本紀
第三卷 天神本紀
第四卷 地祇本紀
第五卷 天孫本紀 或本云,皇孫本紀.
第六卷 皇孫本紀 或本云,天孫本紀.
第七卷 天皇本紀
第八卷 神皇本紀
第九卷 帝皇本紀
第十卷 國造本紀
先代旧事本紀序より
そして、推古朝で成立な書籍なら、その後の天皇の諡號を判る筈もありません。
それは、「先代旧事本紀偽書考」から始め色々の先代旧事本紀の偽書説の立論になったものです。
が、『先代旧事本紀』はこの序を抜けば、別のところは偽書ではないのは今の見方です。
要する、この序を書く人は、『先代旧事本紀』を『天皇記』『國記』を見立したいんです。
是歳,皇太子・島大臣共議之,録天皇記及國記,臣・連・伴造・國造・百八十部并公民等本記.
廿八年春二月,甲午朔甲辰,上宮廄戸豊聰耳皇太子命・大臣蘇我馬子宿禰,奉勅撰録先代旧事天皇紀及國記,臣・連・伴造・國造・百八十部并公民等本紀也.先代旧事本紀のこの技述を見て、『天皇紀』以外、『古事記』の序にある『帝紀』、『旧辞』を目指す意図も見られます。
が、この序は最初から有るのでしょうか、それとも後の人が付けたのか?
あと、この本は始めから『先代旧事本紀』と呼ぶのじゃないかもしれません。
ここで、『日本の神々先代旧事本紀の復権』から一部を引用して頂きます。
平安初期の頃、天皇が御位に就かれると、帝王学として『日本書紀』の講筳を開かれました。承平六年(九三六年)、朱雀天皇の時の講筳では、矢田部公望が講義をしているのですが、そこで『古事記』と『旧事本紀』とどちらが先に成立したのかということについて語っています。矢田部公望は「先師の説に曰く」として、醍醐天皇の時に講義した藤原春海は、『古事記』の方が先で『旧事本紀』の方が後だと言っていたと述べています。そしてその上で、自分は、『旧事本紀』の方が先で『古事記』の方が後だと思うと自らの考えを言っているのです。ところで、朱雀天皇の御世には、『先代旧事本紀』の序文がなかった可能性が高いです。
こういうことが書かれているということは、藤原春海、 矢田部公望の時には、まだ序文が付いていなかったと考えられます。もしも序文が付いていたのなら、「序文にこう書いてあるではないか」と論じる筈なのですが、そういうことを一切論じていない。したがって、この当時は未だ序文はなく、序文はその後の時代に付け加えられたものだと考えられるのです。
でも、その時は既に『先代旧事本紀』を『古事記』以前の著作、所謂古史古伝だと言い放す人がいると思います。
何故なら、そうでないとこの議論が出る自体が可笑しいではないかと。
また、今の『先代旧事本紀』には、「大臣蘇我馬子宿禰、勅を奉いて先代旧事天皇紀と國記を撰録す。」が有ります。
ここから『先代旧事本紀』を聖徳太子撰だという発想が始まるのではないか、私はそうでもないと思います。
まず、前述の講筳が成立した上に、『先代旧事本紀』というタイトルが既に成立したと思いますが、
もしその中に、「蘇我馬子が先代旧事天皇紀と國記を撰録す。」が有れば、そこにも論述しならざるをえないと思います。
多分、今の『先代旧事本紀序』か書いた後、「天皇紀・國記」を「先代旧事天皇紀と國記」に変更したのではないが?
或いは、ある人が「旧事天皇紀と國記」と書いたからその序の発端になるかもしれません。両者一緒の可能もあります。
って、『先代旧事本紀』は一体いつ、何のために書いたのでしょうか?
おそらく『古語拾遺』という「忌部(齋部)氏」の史観の歴史書の影響を受けたからのです。
その前の『古事記』も『日本書紀』も、中臣氏と藤原氏中心の史観で、延喜式は殊更中臣氏の都合によるものに見えます。
が、齋部広成が齋部氏の承傳によって『古語拾遺』を書いて、齋部氏の史観を主張する。
物部氏の関係者が「物部氏の史観」としての歴史を世人に知らせたい為に『先代旧事本紀』を書いたのではないか。
ところで、物部守屋の件も有って、日本紀略にも「世に傅う。大連が家、多く本邦の古典籍を藏す。是の時散亡殆ど盡くと。後學嘆惜す。」と記録した。
その故に、後世の物部関係者は物部氏にある多くの本邦古籍を参考して『先代旧事本紀』を作る筈はない。
そのために、現有の『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の文字を借りて、それに物部独自の史観を融合して『先代旧事本紀』を成立したと思います。
あと、ツッコミしたいことは、
『日本書紀』によって、『國記』は蘇我氏滅亡した時が救出したのですが、『天皇紀』は焼失したのです。
「先代旧事天皇紀と國記」と書くことはやっぱり無理かもしれません。
(当然、焼失したと思ったが実は現存するという言い方も有るのですが)
ところで、上述の「談義を論じる」記録は歴史研究にとってかなり重要のデータです。
誰も今の典籍は当年のままを確信することは出来ないからね。
■[趣味雑談]メモ 編集
日本巫女史 中山太郎著http://page10.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m13230173
やっぱ、7000円になった、もう原価くらい。でも新版の方が買いたいでば...
風雨来記2の中国語紹介をある友人に見せると...
>一目で真鶴・天継・テイラーたんが12歳ってことに止めた
>シナリオ屋を判るね、外人は12歳を過ぎると、間もなくオババになるよ
>つまり、12歳は一番美味しい年なのよ
と、こんな返事がくれた。
思わず、私がこの名前さえ忘れたキャラクター・ディスコミュニケーションの真性ロリコンの言葉を思い出した。
僕にとって女の子とは―ロリコンの気持ち、判らないな...理解不能の域と言う事で。
12歳以下です!!
13歳以上はおばさん!
20歳以上はおばあさん!
30歳以上は化石!
40歳以上は宇宙の誕生以前の存在!
『夢使い』第2巻より
今日はある授業の第二次中間試験だが、やる気があまりないなぁ...
ある友人
2005/05/16 12:58
僕たちロ○コンは、選ばれた人間だったよ。
2005-05-15-日 迷ってます
■[趣味雑談]修羅場続く 編集
MEMSのレポート、大体決めました。現代制御学の宿題もクリアしました。あと、汽車学のレポートには、錯別字の訂正もこれから。(提出は水曜日)
2005 Fate/stay night 原作 : TYPE-MOON / アニメ制作 : スタジオディーン
http://www.moonphase.cc/Html/anime.html
http://www.deen.co.jp/
サイトを更新しました。
http://applepig.idv.tw/kuon/product/game/furai2/fuuraiki2sp01.htm
風雨来記2情報の中国語ページ。
火星計画2
http://www.kogado.com/html/kuma/mars2/mars2main.htm
http://www.fsinet.or.jp/~mayumi/Mica2/
やっぱ岸上。
厄よけ願い鯰の山車
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050514-02467711-jijp-soci.view-001
玄史生さんから頂いた情報:
陵墓参考地の「指定理由」に対立学説、宮内庁が採用
http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20050510i501.htm
外池昇『事典 陵墓参考地』(吉川弘文館\2005年6月)
http://www.yoshikawa-k.co.jp/ryobo1.htm』
今までの天皇陵は大半問題あるだとよく言われます。
実は指定当時有ほぼ全ての「現前方後円全墳を天皇陵に指定した」という話もあります。
興味がある方はやっぱり吉川弘文館の『事典 陵墓参考地』を買うほうがいいと思います。
■[趣味雑談]源義経 編集
尊卑分脈
原文
武畧長名将也 幼日住鞍馬寺 号九郎大夫判官幼名牛若丸 又号遮那王丸 昇殿 為西国
成伐京都守護 伊予守 使 左衛門大尉 従五下 叙留
義経-女子於衣川館卒四才
母同全成(九條院雑仕常磐)
平治元年十二月乱、逆父義朝没落之後、母堂常磐女懼(ママ)公方之責、相随三人幼子沈落大和國方、其時義経二歳、有母之懐抱、其後母上洛之後、自十一才住鞍馬寺、一和尚東光房阿闍梨賢日、弟子善淋房覚日坊、自幼日時、頻嗜武芸云々、
於鞍馬寺相語東國旅人諸陵助重頼、令約諾、承安四年三月三日暁天(于時十六才)窃立出鞍馬山赴東國下著奥州、寄宿秀衡館送五六ヶ年畢、舎兄兵衛佐頼朝義兵之後、治承四年十月率十萬騎旅相模國大庭野之時、超於奥州行向彼陣、
始而向顔舎兄頼朝、落感悦之涙、即随遂了、爰元暦元年正月、於京都木曽義仲悪行時、依院宣為義仲追討、差進東軍之時、範頼義経兄弟為両大将上洛、忽誅伐義仲畢、同二月範頼相共為大将、進發西国、追落平家、一谷城討取平家数多一族、虜重衡卿帰京之後、範頼任参河守、義経補伊予守、并検非違使五位尉畢、
同二年二月廿日、重下向讃州八嶋、追落平家、同年三月、於豊前国門司、長門国赤間壇浦等合戦、同月廿四日、悉追伏平氏余党、奉虜宗盛公父子并女院等、奉向三種霊器、同四月廿五日入洛、即相伴宗盛公父子、下向東国之處、依景時(平)讒侫(ねい)、舎兄源二位、忽勘気絶向、不被入、鎌倉中於、宗盛公者源二位頼朝(卿)及自身対向了、又宗盛公令帰洛之間、義経同請取、相共上洛、於江州篠原提(ママ:こざとへん+是)、刎父子首、於京都渡大路梟獄門畢、其後頼朝卿為義経夜討、依差上土佐(房)昌俊、昌俊寄来判官館、判官兼以了、知之間、散々防戦、遂俘囚昌俊斬之了、其後自関東重時(平)政為、討手大将上洛之間、判官申下院廳(庁)御下文、相伴義憲行家(源)等、
文治元年十一月二日、赴西海之処、遭難風舟各分散帰島之間、無刀(力ヵ)隠居辺之処、彼山衆徒等、捜索追却之間、暫経廻南都、其後経北國、慕先年(文治二夏比)旧好重、下著(着)奥州秀衡館、送三四ヶ年、而同四年十二月秀衡死去之後、同五年四月自鎌倉被仰付討手於泰衡之間、忽背亡父遺命、変累年芳好、泰衡則発向判官館、仍郎等廿余人致最後之防戦皆討死了、文治五年閏四月廿九日焼奥州平泉衣河館、遂以令自害了、卅一才、