2005-07-24-日 をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我は
■[趣味雑談]古事記 編集
■古事記・その史観http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20050620#p3
日比野暉彦さんによる、古事記の研究。
観るたびに、『古事記』を再び見ようか、という気持ちが溢れて来ます。私と『古事記』の出会いは、僅かに五年余り前*1のことだけですが、この数年、『古事記』自身をゆっくりそれ読むこと*2は殆どないという気がします。
実は、私が『日本書紀』の電子テキストを作った以来、日本古代史関連のデータ検正は、書紀の方がより重視しています。同じスサノオノミコトだが、素戔鳴尊の方が先に来ます。ヤマトタケルも、倭建命より日本武尊なんです。
よりによって、『竹取物語』の注訳をする時も、讚岐垂根王と迦具夜姫という『古事記』だけの記録以外、殆どの解説は『日本書紀』、『風土記』*3などを準ずることになります。私の中には、『古事記』が随分冷遇されたかもしれません。
再び観ると、『古事記』は敝サイトの最初のコンテンツでありながら、日本神話と上古史に対する知識が殆どない私は、それを学習のために集めるデータを整理して作成しました。しかも、作成當初は『古事記』が和漢混和体であることすら知らないまま、中国語訳の『日本神話故事』と中国語訳の『古事記』*4を参考して作った。そのあと、友人から『古事記を歩く』という本を貰って、そのダイジェスト版『古事記』を元って、以前が作った『古事記』コンテンツを全面整修してVer.2になる訳です。その後はやっと『古事記』の原文を入手して、三度目の整修をして、Ver.3にありました。さらに何度も何度も修改を重ねていると、今の形になります。何も知らないままから著手したモノから、へたれな文面がよくあります。後で改正したことも有りますが、忘れたものも勿論残ってます。あと、何度もの修訂が有ってから、どちらがメイン底本かどちらが参考底本ですら判らないシロモノになった。という波乱満載の製作過程でしたから、今なって再び観ると、恥ずかしい限りのイロモノと思います。
個人当時の都合で個人当時の読みやすいの形をとりますが、やっぱりへたれの主因になりますが、今も時々修訂してますけど、どう修訂すればいいかも判りません。原文のままなら、中国語サイトである以上「久羅下那洲多陀用幣琉之時(くらげなすただよへるの時=海月なす漂へるの時)」のような文面はあまりよくないと思います。『日本書紀』の用辞によってこの変体漢文を修正するか、『古事記』でなくなるかもしれません。もっとも、敝サイトの『古事記』コンテンツを作った時は学術価値も研究価値も考えたことはない、私を込めて日本神話を知らない人のための入門用モノだけ。ということです。もっと厳謹の電子テキストモノはここで電子テキストと註明したコンテンツ*5だけでいい、と思いますからやっぱりアレをへたれのまま置きます。いつか全面改訂するかもしれませんが、今は暫くこのままに置くの可能性が高いと思います。
何で今更こんなことを言うというのでしょうか?それはbrageloneさんの処で、「古事記の写本の中にさえ《淡路》と写すものがあるが《記では必ず〈淡道〉と書き〈淡路〉とは書かない。》」という注釈が拝見したからです。何故なら、再び観ると私のサイトにあるコンテンツは「坐淡路*6之多賀也。*7」であったから、先は慌てて改正しました。
さて、何で私が「坐淡路之多賀也。」と書いたのでしょう。正直、はっきり忘れました。ネットにある『古事記』の原文電子テキストは真福寺本*8を準ずるから、道果本*9のように「坐淡路也。」と書くわけありません、しかも道果本なら多賀だと書きません。ならば、多分中国語訳『日本神話故事』と中国語訳『古事記』と『古事記を歩く』のどちらか「坐淡路之多賀也。」と書いたわけだと思います。どちらも長い間に読まなかったから、無くなった可能もあります。一番探し出すのは『日本神話故事』、そこは「而後伊邪那岐就回到淡海的多賀。(そのあと、イザナギは淡海の多賀に戻った。)」と書きました。ちゃんと『古事記』の一般解釈を取ります。そして、中国語訳『古事記』と『古事記を歩く』は...見つかりませんでした(汗)。でも、記憶が間違いない限り、中国語訳『古事記』は真福寺本を準ずる筈から、やっぱり一番怪しいのは『古事記を歩く』でしょう、と思いながらやっと『古事記を歩く』を見つけました。やっぱり、そこは「自ら淡路国の多賀の地に引き篭ってしまった。」と書きました。うん、そうなると...作者の佐藤高さん、もしかして伊勢系の人間ですか?(笑)*10
■[趣味雑談]その他 編集
■メイドさん属性チェック Ver.1.30http://www.netlaputa.ne.jp/%7Eannie/maidcheck1.html
2005年 7月 24日 (日) 02時 25分 07秒 現在
浦木裕さんのメイド属性は36ポイントです。精進するつもりがおりません。
あなたは世の中にメイドさんという存在があることを理解していますが
それに対してやや否定的な見方をしていますね。というか、全然萌えていません。
そんなことではこの先面白いことなどないでしょう。精進してください。
あなたのメイドさんに対するイメージは至極まっとうです。
世間一般で生活する分にはその程度で充分でしょう。
しかしメイド萌えの人間から見ればまだまだ甘いと言わざるを得ません。
真に正しい知識を得て更なる飛躍を目指してください。
Tolstoiの正直めどいさんは4018ポイント、滅茶高いですね。どころで4512ポイントは一体どんな人か...
■石上神宮
乙女らが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我は(万葉、4-501)とは、
歌聖柿本人麻呂が石上神宮を詠ぶ歌であり、注目すべきところはその瑞垣であります。
実は古時の石上神宮が拝殿が有りますが、本殿がおりません、代わりに禁足地があります。
でも、神宮の境内と境外を区別する瑞垣は柿本人麻呂の時から出来ているのはこの歌から察しられる。
2005-07-23-土 世間の常無きことは知るらむを心尽くすな大夫にして
■[趣味雑談]戦利品 編集
台湾大学の図書館へ行ってきました。そこで、『前賢故実』『弘仁私記(日本書紀私記)』の一部をコピーして持ち帰りました。
あと、『日本巫女史』とかも少々拝見しました。
前賢故実、可美真手命(宇摩志麻治命)
アニメイトでは、京都府のことば (日本のことばシリーズ)、タタキツクルコト 1/1スコープドッグ制作日誌 (ココログブックス)、マリア様がみてる 薔薇のミルフィーユ (コバルト文庫)を入手して、その前に別のところで中国語版のケロロ軍曹 (10) (角川コミックスエース)も買いました。
来回の途中、日本の神々―『先代旧事本紀』の復権を読了。別々の感想を次回の機会に...
ここに書かれた文章をわたしが読み違えているかもわかりませんが その内容に関連する西宮氏の文章を 以下に書き写してお伝えします。
《・・・〔日本書紀から見ればイザナキの〕神が淡路に鎮座したことは明らかであるが、記のほかに「淡海の多賀」の記事はない。それで、「淡海」は「淡路」の誤りとする説もあり、古事記の写本の中にも「淡路」と写すのがある。
しかし、記では必ず「淡道」と書き「淡路」とは書かないので、これはさかしらに改字したものであると分る。
それならば淡海の多賀(滋賀県犬上郡多賀)に伊耶那岐命がなぜ祀られたかが問題になる。
『日本霊異記』に、近江国野洲郡の御上(みかみ)の嶺にある、祭神を陁賀(多賀)の大神とする神社の側の堂にいる白猿の話(下、二四縁)がある。猿は太陽の神使いであるから、陁賀(多賀)の大神は太陽神ということになる。ここで前掲(省略)の「日の少宮(わかみや)に留り宅(す)みましき」(紀、神代上)が思い合される。「日の少宮」とは、天照大御神の住居である「日の大宮」に対して、「日の若返りの宮」をさす。そこに伊奘諾尊が留り住んだということは、太陽が西に沈んで翌日再び新しい生命の輝きをもって上昇してくる、その「若返り」のために夜隠れていることを意味する。「宮」はその場所である。紀によって、伊耶那伎大神が太陽神であると信じられていたことが分り、「陁賀の大神」の名で、近江の多賀に鎮座したことが十分推測できる。
近江には、日吉(ひえ)・日野・朝日山など太陽にちなむ地名が多く、『延喜式』の神名帳には、日吉神社(滋賀郡)日向(ひむか)神社(犬上郡)日撫(ひなで)神社(坂田郡)日置(ひおき)神社(高島郡)などの社があることを合せ考えると、記が「淡海の多賀」を鎮座地にしていることを疑うべきではない。
この神を始祖とする氏族はない。人間の始祖であるから特定の氏族の始祖であるはずがないからである。この神名を社名にもつものを神名帳(延喜式)で見ると、伊佐奈岐宮二座(伊佐奈弥命一座。伊勢国度会郡)・伊射奈岐神社二座(摂津国嶋下郡)・伊射奈岐神社(大和国添下郡)・伊射奈岐神社(大和国城上郡・葛下郡)・淡路伊佐奈伎神社(淡路国津名郡)・伊射奈伎神社(若狭国大飯郡)がある。これによると、伊耶那伎大神は「海人(あま)族」(古代漁民集団)の奉斎神であり、その伝承が多彩な神格を形成して、結局、天照大御神の祖神として定着せしめられたものであろう。》
西宮一民著『新潮日本古典集成(第二七回) 古事記』1979(pp.326-327)
kuonkizuna 2005/07/25 02:04 日比野さん、丁寧な書き込みどうも有難う御座います。
大変参考になります、これからも宜しく御願い致します。