2008-08-24-日 行く年の惜しくも有る哉真澄鏡見る影さへにくれぬと思へば
■[趣味雑談]海外出張中:会場到着(0823) 編集
午前4時50分起きて、廈門のホテルを後にして、廈門空港で山東行きの飛行機に乗りました。
山東空港に到着したとき、タクシーで行くしかないと思ったが、意外にも山東大学から迎えに来た教授が待ってくれました、そこで専車で山東大学まで来ました。半端なく遠い...
昼食はまた昨日みたいな高いもの......幸にも今度は山東大学の奢りでした。
ちなみにいうと、昨日の夜食の食代料(八人分)は、廈門人の一ヶ月の給料分だそうです。
私の報告は、カンファレンス第一場のB SECTIONの最後です。
どうやら大陸のカンファレンスは台湾より活絡で、質問を出す人も半端じゃなかったんです。
会後、ウチの研究について、「いつ売る?」と聞いてくれた人が少なくありません。
特許申請中と答えるしかないんですね。但し、先生が知ったら大喜びだそう、たぶん。
どころで、登録して参加料を払ったら、身元には200人民幣しかありません...
台湾に帰るにはたりうるでしょうか、と心配している今日のこの頃。
さっき、旅行社のお知らせを貰って、
明日の晩で廈門に戻り、明後日の船で金門行きという予定だそうです。
但し、面倒なことに、明晩はホテルなしだそうです。そりゃヤバイ......
とりあえず、行程をメモする。
となっております。
ちなみに、山東大学から山東空港はバスで40分掛かりそうで、玉泉森信大酒店前にバス停があるだそうです。
明日のCONFERENCは18時終わりそうで何とかなるかな。たぶん。
さて、明晩はどう過ごすべきなのか......
2008-08-23-土 昨日と云ひ今日と暮らして飛鳥川流れて速き月日なりけり
■[趣味雑談]海外出張中:意外だらけ旅路(0822) 編集
カンファレンスの為に海外出張致します予定では、今朝の午前5時、実験室より出て、6時頃桃園中正空港に到着ということです。
そこまではほぼ予定とおりでしたが、そのあとは混乱の極まりと言っても差支ない状況でした。
当初の予定は、
基隆→桃園→香港→済南→カンファレンス会場であったはずなのですが、台風のせいで香港空港が関閉寸前で予定の香港→済南便も中止する事になりました。例え桃園→香港に乗っても、香港で身を動かないのなら意味がありません。
そこで、急に旅行社と連絡をしてみたが、付けませんでした、故に中正空港で待機するまま、旅行社との連絡を試し続けていました。九時ころ、やっとその旅行社と連絡を付きました。
指導教官が「順風満帆であるように」と祝言を下さったのですが、どう返事すればいいでしょうか
香港は無理なら、他の城市から済南への転乗りしか仕方ないので、色々考案をやってみました。
確かに両岸直航便もありますが、直接済南へ行けるわけないし、また高すぎます。
というわけで、金門を中継として、船で廈門へ行くという小三通の案がでました。
ただし、廈門から済南までの便は既に間に合わなく、今日の参加者登録は無理です。
そこで、予定を
桃園→松山→金門→廈門→済南→カンファレンス会場に変更しました。
が、ようやく台北松山から出た飛行機が金門に辿った時、
金門から廈門への船も台風ゆえ中止しました。
仕方なく廈門ではなく泉州へ、そして泉州からバスで廈門まで着ました。
取りあえず廈門で一泊して、明日が最初便済南へ行く事になります。
どころで、泉州の景色は、ほぼ二十年前の台湾のイメージそのものです。
但し、廈門の様子が複雑で十年前の台湾から今の台湾までのイメージが混在しています。
ちなみに、ウチの大学のメンバー以外に、
同じく台風のせいで予定が壊れた台湾大学のメンバーと共に、
八人のクループが形成しました。私以外全員教授なので、教授団だと呼ばわれます。
全員教授だけあって、物価の安い大陸にいるにも拘らず、
晩御飯は120人民幣という酷い値段のヤツです......
人民幣の引き換わりもかなり波乱がありました。
柯教授が美金だけもって、どこにも換えしてくれなかったんです。
周教授が以上の事故で、人民幣以前に台幣さえ持っていなかった。
金門の水頭碼頭に到着して、人民幣引換えの事務室があっても、そこにATMがありませんでした。
しかも、最近いのATMは酒廠辺りに在って、とてもいけそうになかったんです。
2008-08-22-金 雪降りて年の暮ぬる時にこそ遂に紅葉ぬ松も見えけれ
■[趣味雑談]HDDのフォーマットと同人誌の焼却を・・・ 編集
というわけで、08/22 AM 5:00より実験実をたつ、AM 8:00の飛行機を乗り、山東のカンファレンス会場へ向かう予定になります。もし飛行機が落ちたら色々とよろしくお願い致します。(おい
■日本巫女史
古代人は神意を伺ふ方法を幾種類が發明し工夫して所持してゐたが、其の中で祝詞に最も關係の深い物を舉げれば、託宣である。勿論、此託宣の中には、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれてゐるが、託宣は直ちに神聲であり、神語である。『欽明紀』十六年春二月條に「天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰。」云云と有るのは、祝者──即ち巫女﹝祝はハフリと訓むとは後章に述べる。﹞が神語を託宣した者である。『萬葉集』卷十九に「注江に、齋イツく祝ハフリが、神語カムコトと、行くとも來とも、船は早けむ。﹝4243﹞」と有るのや、同集卷四の長歌の一節は「天地の、神辭寄せて、敷妙の、衣手交へて、自妻と、償ワめる今宵。﹝0546﹞」等を始として、書紀、萬葉に多く散見する處である。
而して、此の神語なる物は、如何なる形式で表現されるかと云ふに、憑神カカルカミに依つて、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謠的に律語を以てする物と有るが、概して言へば、太古に溯る程素朴で單純であるのに反し、時代の降る程枕辭を冠し、對句を用ゐる等、頗る典雅な物となる。『肥前國風土記』佐嘉郡條に、
郡西有川,名曰佐嘉川。﹝中略。﹞山川上有荒神,往來之人,半生半殺。於茲,縣主等祖大荒田,占問。于時,有土蜘蛛大山田女、狹山田女,﹝中山曰、巫女也。﹞二女子云:「取下田村之土,作人形、馬形,祭祝此神,必在應和。」大荒田,即隨其辭祭此神,神敵ウチテ此祭,遂應和之。﹝云云。﹞
と有るのは、神語の最も簡古な物で、前者の例と見るべく、『播磨國風土記』逸文に、
息長帶日女命,【○神功皇后。】欲平新羅國,下坐之時,禱於眾神。爾時,國堅大神之子爾保都比賣命,著カカリ國造石坂比賣命,教曰:「﹝中略。﹞比比良木八尋桙根底不附國ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ、越賣眉引國ヲトメノマヨヒキノクニ、玉匣賀賀益國タマクシゲカガヤククニ、苦尻有寶白衾新羅國コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ矣,以丹浪而將平賜伏。」如此教賜。﹝云云。﹞
と有るのは、やや技巧の加つた物で、後者の例として見る事が出來る。更に『神功紀』に載せてある神后の託宣に至つては、﹝中山曰、此の全文は後章に引用する、參照を望む。﹞對句と疊句を用ゐ、高雅にして典麗を極め、全く歌謠體の律語を以て表現されてゐる。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi.htm
■大日本史
藤原小障テ麻呂,中衛大將房前孫,從五位下馬養子也。【公卿補任。】寶字末,授從五位下,為伊勢守。景雲中,歷式部少輔、安藝守。寶龜中,除中衛少將,改右衛士督,歷兼美濃、上野、出雲、常陸守,累進從四位上。十年,拜參議。十一年,陸奧蝦夷反,授正四位下,為持節征東大使。奏曰:「蠢玆蝦夷,寔繁有徒。或巧言連謀,或窺隙肆毒。是以遣二千兵,經略鷲座、楯座、楯石澤、大菅屋、柳澤等五道,刊木塞徑,浚溝設險,以斷逆賊首鼠之要害。」敕曰:「如聞出羽大室塞等,亦是賊之要害也。宜命將軍及國司,據險置戍,防禦衝突。」天應元年,兼陸奧按察使,加兵部卿。桓武帝即位,小障テ麻呂上狀言賊情。敕曰:「得奏狀,具知消息。彼夷俘之為性,蜂屯蟻集。攻則犇逃山藪,緩則侵略城塞。而伊佐西古、諸絞、八十島、乙代等,賊中之首,一以當千。竄跡山野,窺機伺隙。畏我軍威,未敢縱毒。今將軍等未斬一級,先解軍士。事已行訖,不可復追。但見先後奏狀,賊眾四千餘人,所斬首級僅七十餘,則遺眾猶多,何遽請凱旋?縱有舊例,朕不取焉。宜差副使內藏全成、多犬養等一人,乘驛入京。先奏軍中委曲,其餘待後處分。」是時征東副使大伴益立逗遛不進,乃命小障テ麻呂,進軍擊蝦夷。至則悉復諸塞,就授民部卿。賊平歸京師,以功敘正三位。延曆初,再兼陸奧按察使。未幾,改兼左京大夫,任中納言,尋轉大納言。【續日本紀。】十三年,薨,年六十二,贈從二位。【公卿補任。】子葛野麻呂,自有傳。道雄,至從四位上參議。【公卿補任、尊卑分脈。】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm
2008-08-21-木 新まの年の終りに成る毎に雪も我が身もふり増りつつ
■[趣味雑談]あと一日 編集
■日本巫女史
更に詳言すれば、祝詞なる物は、神が人に對して、積極的に、此れ此れの事をして祭れとか、又は消極的に、此れ此れの事はする勿と誨へた事が、此れの起源と成つてゐるのである。而して此の意義を理解し易い樣、祝詞の中から例證を覔めて具體的に言へば、前者の例としては『遷卻崇神祭』の祝詞に、
其他種種の幣帛を鋤メ出の如く置き足らはして祭つたのが其れであつて、後者の例としては『道饗祭』の祝詞に、
- 進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打斷る物と太刀、馳せ出づる物と御馬。
と有るのが其れである。從つて祝詞は、古い物に成る程宣命體と成つてゐるが、然も其の宣命の一段と古い處に溯ると、託宣と成つてゐるのである。而して其の託宣は概して神の憑代ヨリシロである巫女の口を藉りて發せられるのである。
- 根國底國より麤び疎び來む物に、相率り相口會する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り・日の守りに、守り奉り齋ひ奉れ。
■大日本史
大伴益立,初授從六位上。寶字中,鎮守將軍惠美朝獵造桃生城。益立為軍監,有功,進從五位下。【○本書曰,嘉再征之勞進位。而事實無所見,蓋脫文也。】軍曹韓袁哲以先登功,進三階。既而益立為陸奧鎮守副將軍,兼陸奧介。景雲中,褒功進正五位上,歷兵部式部大輔。寶龜中,為肥後守,改太宰少貳。六年,為遣唐副使。明年八月,浮海,風惡不能進,還至博多,大使佐伯今毛人還京師。益立留府待期,時人善之。然竟否行。頃之,歷權左中辨、左右兵衛督。十一年,為征東副使,兼陸奧守。臨發,敘從四位下,敕曰:「得將軍等五月八日奏云:『且備兵糧,且伺機要,方以今月下旬,進入國府,然後侯機乘變,龔行天誅。』者,既經二月。計日准程,佇待獻俘。夫出軍討賊,國之大事。進退動靜,宜陸續奏聞。何經數旬,絕無消息。宜告委曲,如書不盡意。差軍監已下堪辯者一人,馳驛奏上。」或譛益立曰:「益立至君,數僽征期,逗遛不進,空費軍糧,久彌日月。」因遣按察使藤原小障テ麻呂征之。明年,賊平,詔讓益立畏懦,削其本位。延曆中,為兵部大輔。【續日本紀。○或譛益立,據續日本後紀。】子野繼,仁明朝,為越後大掾。承和中,上書訴父冤。詔復本位。【續日本後紀。】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm
■ギョーザ中毒事件に関わった中共の食品監督局長が自殺
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1155474.html
■台湾のお店の名前が親日過ぎ
http://portal.nifty.com/2006/11/22/c/
それは痛い...
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