2008/08/16

中山太郎『日本巫女史』電子テキスト化プロジェクト

2008-08-16-土 梅花それとも見えず久方の天霧る雪の並べて降れれば

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f:id:kuonkizuna:20080816141617g:image:right
中山太郎日本巫女史電子テキストプロジェクト
http://docs.miko.org/
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi01.htm
たちゃなさんのWIKIによる新字版と、ウチのHTMLによる正字版を同時進行中。


日本巫女史
 此記事に據れば、太詔詞は全く呪文であつて、然も其の呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名に依つて傳へられてゐる事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手に依つて著作された此種の文獻を、決して無條件で受容れる者では無いが、兔に角に祝詞の本質が古く呪文であつた事、及び此書の作られた南北朝頃には、未だ太詔詞なる物が存してゐた事等を知るには、極めて重要なる暗示を與へる物と考へたので、斯くは長長と引用した次第である。殊に注意し無ければ成らぬ事は、此記事に據れば、天兒屋命は純然たる公的呪術師であつて[八]、神事の宗源とは即ち呪術である事が明確に認識される點である。未だ太詔詞に就いては、記したい事が相當に殘つてゐるのであるが、其れでは餘りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戶命の正體に就いて筆路を進めるとする。
 伴信友翁は「太詔戶命と申すは、兒屋命を稱へたる一名なるべし。﹝中略﹞名に負ふ中臣の祖神に坐し、果た卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ狀を祝詞する例なるに合わせて、卜庭に祭る時は、太詔戶命と稱へ申せるにぞあるべき。」と考證されたゐるが[九]、私に言はせると、是れは伴翁の千慮の一失であつて、太詔戶命とは即ち太詔詞の言靈を神格化した物と信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究に據れば、
 言靈信仰は、自づから言語人格神として取扱ふに至るべき事を想像せしめる。其例として、辭代主神・一言主神の如き、言靈神では無いかと思はれる。辭代主の屢ば託宣するは史傳に見ゆる處であり。一言主も亦『鄉土研究』に據れば[十]、良く託宣した事が見えてゐる。善言も一言、惡まが言も一言と神恕yを傳へた其の神が、言靈の神であるべき事は想像せられ易い。
 とあるのは至言であつて[十一]、私は是等の辭代主・一言主に、更に太詔戶命を加へたいと思ふのである。伴翁は太詔戶命と共に卜庭の神である櫛真知命は波波加木の神格化であると迄論究されてゐながら[十二]、何故に太詔戶命の太祝詞の神格化に言及せられ無かつたのであるか、私には其れが合點されぬのである所謂、智者の一失とは此の事であらう。前に引いた『龜兆傳』の太詔戶命の細註にも「持神女、住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也。」となりと明記し、兒屋命と別神である事を立證してゐる[十三]。太詔戶命は言靈の神格化として考ふべきである。

大日本史
 道島島足,陸奧牡鹿郡人。體貌雄壯,志氣驍勇,菩騎射。本姓丸子,勝寶五年,改賜牡鹿連。寶字中,為授刀將曹,奉詔與坂上苅田麻呂,射殺惠美訓儒麻呂,以功擢從四位下,賜宿禰,補授刀少將,兼相模守。神護中,授勳二等,陞近衛員外中將,賜姓道島宿彌,至正四位上。景雲初,為陸奧大國造。寶龜中,兼下總守,入為內廄頭,兼播磨守。延曆二年,卒。【續日本紀。】
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■【北京五輪世界中報道陣に配られたプレスキットの携帯ラジオ五輪ロゴを剥がすとなぜか「小倉優子グラビア写真
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クレープのマミ......


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2008-08-15-金 消ぬが上に又も降りしけ春霞立ちなばみ雪稀にこそ見め

[]類聚神祇本源 類聚神祇本源を含むブックマーク 類聚神祇本源のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、此れを吐普加身|(遠神)云云を以て充當しようと企てられたのは、恰も平田翁が此れを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じ事で、共に出典を缺いた臆說と見るべき外はないのである。
 然らば太詔詞の正體はと云へば、此れは永久に判然せぬ物であると答へるのが尤も聰明な樣である。恐らく此の神呪は此れを主掌してゐる中臣家の口傳であつたに相違無い故、其れが忘られた以上は永久に知る事の出來ぬものである。然るに、茲に想起される事は、「類聚神祇本源」卷十五﹝此書に就いては第一篇第二章に略述した。﹞神道玄義篇の左の一節である。
  •  問:開天磐戶之時、有呪文歟如何?答:呪文非一、秘訓唯多。﹝中略﹞又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘說、不及悉勒。謂天神壽詞天津宮事者、皆天上神呪也。
  •  問:何故以解除詞稱中臣祓哉?天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何?答:以解除詞稱中臣祓者、中臣氏行幸每度奉獻御麻之間有中臣祓之號云云。此外猶在秘說歟。凡謂濫觴,天兒屋命掌神事之宗源云云。奉天神壽詞、天村雲命者捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫降臨之時、天祖太神授秘呪於天兒屋命、天兒屋命貽神術於奉仕累葉。﹝中略﹞次座に(仁)面受秘訓、莫傳外人。由緣異他相承嚴明也。復次天祝太祝詞、是又有多說。此故聖恕y太子奉詔撰定伊弉諾尊小戶橘之檍原解除、天兒屋命解素戔鳴惡事神呪、皇孫尊降臨呪文、倭姬皇女下樋小河大祓、彼此明明也、共可以尋歟。﹝續續群書類從「神祇部」本。﹞

大日本史
 坂上苅田麻呂,阿智使主後也。祖父大國,右衛士大尉。父犬養,少以武力稱,聖武帝甚寵昵之,至從四位下左衛士督。及帝崩,大養以被殊遇,與右兵衛率鴨蟲麻呂,請守山陵。孝謙帝憐其志,特許所請,下詔褒之,授正四位上,賜封百戶。寶字初,歷播磨大和守。八年,卒,年八十三
 苅田麻呂,寶字中,為授刀少尉。惠美仲麻呂反,遣子訓儒麻呂,邀奪鈴印。苅田麻呂奉詔,與將曹牡鹿島足射殺訓儒麻呂,以功授從四位下,賜姓大忌寸,補中衛少將,兼甲斐守。神護中,授勳二等,賜功田二十町,傳其子。賓龜中,以告道鏡奸計,敘正四位下,為陸奧鎮守將軍,補中衛中將,【○本書寶龜三年及延曆五年條,作近衛員外中將。】兼安藝守。奏曰:「檜前忌寸之祖阿智使主,輕島豐明宮馭宇,率十七縣人民歸化。詔賜大和高市郡檜前村而居焉。他姓者十而一二,請以檜前忌寸任郡司。」許之。【○按本書云檜前忌寸祖阿智使主,下文又云:「臣等阿智使主之後。」由是觀之,檜前氏與坂上氏同祖,故有此請。】數年,兼丹波守。天應元年,兼右衛士督。延曆中,坐冰上川繼事奪職。數月,復右衛士督,歷兼伊豫、備前等守。坂上氏世以武顯,苅田麻呂善騎射,宿衛宮掖,歷事數朝,帝殊寵遇,別賜封五十戶。四年,兼下總守,敘從三位。上表言:「臣等本是後漢靈帝曾孫阿智王之後,失先祖王族,冒下人之卑姓。望請改忌寸,賜宿禰。天恩矜察,儻垂聖聽。所謂寒灰更煖,枯樹復榮也。」於是坂上、內藏、平田、大藏、文調、文部、谷民、佐太、山口等十姓一十六人,皆賜宿禰。是歲,為左京大夫,餘官如故。五年,薨,年五十九。【續日本紀。○按系圖載七男石津麻呂、廣人、田村麻呂、鷹主、真弓、鷹養、雄弓。然除田村麻呂外,諸書無所見,今不取。】子田村麻呂,自有傳。
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■春来る鬼
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物部分布
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2008-08-14-木 朝ぼらけ有明の月と見る迄に吉野の里に降れる白雪

[]太詔詞 太詔詞を含むブックマーク 太詔詞のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

 而して是等の用例に現はれたる太詔詞に對する諸先覺の考證を檢討せんに、先づ賀茂真淵翁の說を略記すると、「或人﹝中略﹞、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也。」とて[四]、大祓の外に別に太詔詞有る事を云はず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れてゐぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也。」として[五]、賀茂說を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うてゐぬ。然るに、平田篤胤翁に至つては、例の翁の臆斷を以て、異說を試みてゐる。
茲に其の梗慨を記すと、
  •  太祝詞を天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事を(乎)宣れ(禮)とは何を宣る事とかせむ。
と言われた迄は卓見であるが、更に一步を進めて、太祝詞の正體は、
  •  太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ。
とて[六]、遂に禊祓を太祝詞と斷定したのである。鈴木重胤は平田說に示唆されて一段と發展し、伯家に傳りし大祓式に三種ノ祝詞有るを論據として、遂に太詔詞は、
  •  吐普加身衣身多女(トホカミエミタメ)とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普(遠)は遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の內を悉く取統て云也、加身(神)は神(カミ)にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり、依身(惠)は能看(エミ)、多女(賜)は可給(タメ)と云ふ事にて。﹝中略﹞簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり。﹝中略﹞此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なる物也、そは大祓大祝詞に用ゐららるに祓給へ(幣)清給へ(幣)の語を添て申すを以て曉(さと)る可き也云云。
と主張してゐる[七]。

大日本史
 田中多太麻呂,寶字中,任中衛員外少將,兼上總員外介,敘從五位上,為東海道節度副使陸奧守,兼鎮守副將軍,尋拜鎮守將軍。景雲中,伊治城成,敕曰:「見陸奧國所奏,知伊治城成。版築之功,不滿三旬。朕甚嘉焉。夫臨危忘生,忠勇乃見,銜命奉事,功績早成。非但築城制外,誠足減戍安邊。若不褒進,何勸後徒。宜加酬賞,式慰匪躬。其從四位下田朝臣多太麻呂,授正四位下。外從五位下道島宿禰三山,首建是謀,今美其功,特賜從五位上。外從五位下吉彌侯部真麻呂,狥國爭先,狄徒馴服,賜外正五位下。軍毅以上,及諸國軍士、蝦夷俘囚,臨事有效,應賜位者,鎮守將軍宜簡定等第奏聞。」多太麻呂上言:「兵士之設,機要是待。習戰輕生,奮勇爭先,如此而可用也。而比年諸國所發戍兵,在道逃亡。當國運糧鎮所,計稻三十六萬束,徒費官物,民庶困弊。前守百濟敬福罷他國戍兵,點當國之人。請依此例,點國申四千人,以減戍兵二千五百人。又此地祁寒,積雪難消。其輪調庸,初夏上道,季秋還鄉,梯山航海,艱辛備至,妨民產業,無過于此。望請調庸收置於國,十年一度,運輸京庫。」許之。又上言:「他國鎮兵見在戍者,三千餘人。其二千五百人,被符既罷。伏請所遺五百餘人,留守諸塞。被天平實字三年符,差浮浪一千人,配桃生柵戶。皆是情抱規避,萍漂蓬轉,將至城下,相繼逃亡。當今之計,募比國三丁已上戶二百,徙實城郭,永為邊防。待其安堵,稍省鎮兵。」太政官議奏曰:「夫懷土重遷,俗人常情。今徙無罪之民,配邊域之戍,則物情不愜,逃亡無己。若有願就二城之沃壤,求三農之利益者,不論當國、他國,任便安置。法外給復,令人樂遷,以為邊守。」奏可。入為宮內大輔。寶龜中,歷民部大輔,兼美濃守,改右大辨,兼出雲守。九年,卒。【續日本紀。】
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2008-08-13-水 冬籠り思掛ぬを木間より花と見る迄雪ぞ降りける

[]太詔戸命 太詔戸命を含むブックマーク 太詔戸命のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

一、太詔戸命は言靈の神格化
 私の父は大變な平田篤胤翁の崇拜家であつただけに、草深い片田舍の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であつた[三]。其の父が生前に書き殘して置いた物の中に、『六月晦大祓』の祝詞の一節に「天つ菅麻を、本刈斷ち末打切りて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ、斯く宣らば天つ神は。」云云とある『太祝詞』とは何の事か知るに由が無いと云ふ意味が記してあつた。私は深く此事を記憶てゐて、爾來、本居・平田兩翁の古典研究を始め、伴信友橘守部鈴木重胤等の各先覺の著書を讀む折には、必ず特に『太詔詞』の一句に注意を拂つて來たのであるけれども、私の不敏の為か、今に此の一句の正體を突き留める事が出来ぬのである。それでは、代代の先覺者には、此事が充分に解釋されてゐたかと云ふに、どうも左樣では無くして、多分こんな事だらう位の推し當ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位の物に過ぎぬのである。斯く碩學宏聞の大家にあつても、正體を知る事の出来なかつた太詔詞の一句、田舍親爺の父等に知れべき筈の無いのは、寧ろ當然と云ふべきである。然らば、其の太詔詞とは如何なる物であるか、先づ二三の用例を舉げるとする。
 太詔詞の初見は『日本書紀神代卷の一書に、「使天兒屋命掌其解除之太諄詞(フトノリトゴト)而宜之。」の其れで、祝詞では前揭の大祓の外にも散見してゐるが、重なる物を舉ければ「鎮火祭」には二箇所有つて、前は「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん。」とあり、後は、「和稻、荒稻に至るまでに、鋤メ山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す。」とある。「道饗祭」には、「神官天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等諸聞しめせと宣る。」とあり、此れも前に引用した『中臣壽詞』には「此御櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)を持て宣れ。」とあり、更に『萬葉集』卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝。」と載せてある。

大日本史
 大野東人,糺職大夫果安子也。元明帝時,敘正位上。和銅中,新羅使來朝,東人與從六位下布勢人,奉騎兵迎於三碕。【○本書碕一作椅。】養老中,進從五位下。神龜初,陸奧蝦夷反,從式部卿藤京宇合討之。【續日本紀。】東人建議:「築多賀城,防遏蝦夷。」【多賀城碑。】賞功授從四位下勳四等,為陸奧鎮守將軍,兼按察使。天平中,奏言:「在鎮兵士,宜錄功授官位,以勸後人。」從之。尋敘從四位上。又奏云:「從陸奧達出羽柵,道經男勝,行程迂遠。請征男勝蝦夷,以通直路。」詔遺兵部卿藤原麻呂等擊之。麻呂與東人率諸國兵,進破之。蝦夷悉降。東人之計居多,語在麻呂傳。麻呂奏使東人鎮多賀柵,兼大養恕y守。十一年,拜參議。太宰大貳藤原廣嗣起兵,朝廷以東人為大將軍,持節討之。從五位上紀飯麻呂副之。發東海東山山陰山陽南海五道兵一萬七千,又召隼人,授位賜服,令從軍。會遣新羅使船泊長門,敕取其所載器物,以充軍用。使人有才者,量任用之。東人與戰,斬賊將小長谷常人、凡河內田道等,降登美、板櫃、京都三營賊兵一千七百六十七人,並獲器械若干。又差長門豐浦郡小領額田部廣麻呂,將精兵先濟板櫃。遣從五位上佐伯常人、從五位下安倍蟲麻呂,將兵四千及隼人,鎮板櫃營,而自將後至兵繼進。賊將楉田勢麻呂、膳東人、勇山伎美麻呂、佐伯豐石等皆降。詔曰:「朕有所思,今月之末,暫往關東,雖非其時事,事不得已。將軍知之,莫有所疑。」廣嗣逆戰於板櫃河,眾潰,斬廣嗣及弟綱手十三年,以功敘從三位。帝幸恭仁宮,東人留守平城。十四年,薨。【續日本紀。】
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南オセチアグルジア軍侵攻・ロシア軍介入
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■まっ赤な麦藁帽子?

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張って間もなく消された..._| ̄|○

■デイビス・モンサン空軍基地

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