2008/08/31

坂上田村麻呂

2008-08-31-日 櫻花散交ひ曇れ老いらくの來むと云ふなる道紛ふがに

[]もののふ

日本巫女史
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi01.htm#18-1
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大日本史
 坂上廣野。廣野,少以武勇聞,執直不撓,頗有節操。弘仁中,歷右近衛少將,兼伊勢守,出為陸奧守。秩滿,任右兵衛督,至從四位下勳七等。天長五年,卒,年四十一。【類聚國史。】廣野子當道。【三代實錄。】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm


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2008-08-30-土 千早振る神や切りけむ作くからに千歲の坂も越えぬべらなり

[]0830


大日本史
 坂上田村麻呂,【村,一作邑。】左京大苅田麻呂子也。【公卿補任。】身長尺八寸,胸厚一尺二寸,身重二百一斤,輕之至六十四斤,眼如蒼隼,鬚髯如金線,有膂力。【水鏡、田邑傳記。】延層中,敘從五位下,為近衛將監,兼內匠助,進近衛少將,【○按古今著聞集曰,嵯峨天皇時,有人欲窺隙賊天皇。憚田村麻呂為近衛將監常在左右,而待其遷除。田村尋任少將、中將、大將,親幸優渥,由是終不能發。然田村麻呂,桓武朝歷少將、中將,平城朝任大將,嵯峨弘仁二年卒。著聞集所載,事實乖繆,今不取。】兼越後守。帝將征蝦夷田村麻呂與從五位上百濟俊哲,赴東海道,閱士馬,檢戎器,俄為征夷副使。【續日本紀。】從大將軍大伴弟麻呂討蝦夷,殺略甚多。【日本紀略。】以功進從四位下,兼木工頭,任陸奧出羽按察使,兼陸奧守、鎮守將軍。尋拜征夷大將軍,【公卿補任。】奉敕檢校諸國夷俘。二十年,陸奧蝦夷復反。授節刀討之。及凱旋,除從三位,【日本紀略。○元亨釋書僧延鎮傳曰,田村麻呂奉敕討陸奧逆賊高丸。高丸既陷駿河,次清見關,聞田村麻呂出師,退據陸奧。官軍與賊戰,矢盡,有小比丘小男子,拾矢與田村麻呂。田村麻呂射弊高丸於神樂岡,傳首京師。東鑑曰,奧州田谷窟者,賊首惡路王及赤頭等構砦之所也。田村麻呂討賊之日。建精舍於窟前,摸鞍馬寺,安多聞天像,號西光寺,寄附水田若干。高丸、惡路王二事,他無所見,附以備攷。】遷近衛權中將。【公卿補任。】二十一年,築陸奧膽澤城,鎮壓蝦夷。夷酋大墓公阿氏利為、盤具公母禮,率部落五百餘人降。役竣,將二酋歸京,請放還本部,以招黨類。公卿議曰:「野性獸心,叛服無定。今褚朝威,獲此梟帥。若依奏請,是所謂養虎遺患也。」乃斬於河內植山。二十二年,又赴陸奧,築志波城。及辭見,賜彩帛五十匹、綿三百屯。【日本紀略。】還為刑部卿。【公卿補任。】二十三年,再為征夷大將軍。【公卿補任日本紀略。】明年,任參議。大同初,任中納言,兼中衛大將,餘官如故。【公卿補任。】奏曰:「陸奧出羽,郡司之任,職員有限。而邊要之事,頗異中國。望請擬任幹了勇決之人,以為防守警衛之備。」於是敕聽正員之外,擬任郡司軍役。【類聚三代格。】二年,改中衛府右近衛府田村麻呂居府如舊,兼侍從兵部卿,進正三位。【公卿補任。】尚侍藥子之變,下敕固三關。田村麻呂居兵府,威望素顯。帝恐其為太上皇用,遽進大納言,以固其心。【水鏡。】及太上皇將東,使率輕銳,邀之美濃道。【類聚國史。】時文室綿麻呂,以侍太上皇,繫于左衛士府。田村麻呂知其才器可用,奏釋之。與俱行,事尋平。【類聚國史、日本紀略。】弘仁二年,薨於粟田別業,年五十四。【日本紀略。】賜絁布米及役夫二百人。帝不視事一日。遣大舍人頭藤原縵麻呂、治部少輔秋篠全繼,就第傳宣,【田邑傳記。】贈從二位,賜山城宇治郡栗栖村水陸田山林三町為墓地,【日本紀略。○參取田邑傳記。】使其屍立棺中,向平安城而葬之。并甲冑劍矛弓箭糒鹽瘞之,官使監護其事。是後國家有事,則其墓鳴動云。大將每出征,先詣而禱焉。【田邑傳記。】其所佩劍,藏之御府,曰坂上寶劍。【古事談、筯鏡。】帝親贊其像,深哀惜焉。【坂上系圖。】初田村麻呂出獵,遇僧延鎮,嘉其清苦。為創清水寺愛宕郡。【藤原明衡清水寺新造願文、今昔物語。】弘仁初,請為官寺。【田邑傳記。】子廣野、【類聚國史。】淨野。【文紱實錄。】
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2008-08-29-金 斯くしつつ兎にも角にも永らへて君が八千代に逢ふよしも哉

[]最悪のレギオン


大日本史
 大伴勝雄,天長中,為陸奧守,兼按察使,至從四位下右兵衛督,兼讚岐權守。資性?簡,不訐隱密。家風清廉,不近貨利。出總戎事,入典禁兵。一時論稱:「勝雄雖乏才學,有將帥之器。」八年,卒,年五十六。【類聚国史。】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

クリスタルさんの京都の旅
http://picasaweb.google.com/Armigil/2008KyotoDay1

■獣の爪牙を自負する者よ、誉れ高きその名を唱えよ
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/meisi/occult/dies_irae/glossary/ldo/03m2.htm

動物\(^o^)/画像
http://waranote.blog76.fc2.com/blog-entry-1309.html

2008/08/28

渡海の濱の真砂を數へつつ君が千歲の在數にせむ

2008-08-28-木 我が齡君が八千代に取添へて留置きては思出にせよ

[]昨日よりちょっとマシに成った...かな 昨日よりちょっとマシに成った...かなを含むブックマーク 昨日よりちょっとマシに成った...かなのブックマークコメント 編集CommentsAdd Star


大日本史
 大伴弟麻呂,吹負曾孫,【○據續日本紀,書古慈斐,吹復孫。】父古慈斐,【公卿補任。】少有才幹,略涉書記,起家為大學大允。藤原不比等以女妻之。勝寶中,累遷至從四位上衛門督,俄出為出雲守,以見踈斥,意常鬱鬱。八年,藤原仲麻呂誣:「古慈斐及淡海三船誹謗朝政,無人臣禮。」禁於衛士府,左遷土佐守。寶字初,以黨橘奈良麻呂,再得罪。寶龜初召還,復本位為大和守,敘正四位下。六年,優老授從三位。八年,薨,年八十三。【續日本紀。○父古慈斐以下至此,古慈斐事。】
 弟麻呂,寶龜末,為衛門佐。天應元年,兼中宮亮,累遷左衛士佐。延曆初,任常陸介,為征東副將軍,入補右中辨,轉左,歷兼皇后宮亮、河內守。十年,至從四位下,為征夷大使,【續日本紀。】赴陸奧。十三年,授節刀。弟麻呂遣副使坂上田村麻呂等討蝦夷,大敗之,斬首四百五十七級,捕虜一百五十人,獲馬八十五匹。明年,振旅而歸。【類聚國史、日本紀略。】褒授從三位勳二等。【類聚國史。】尋為皇太子傅,以老乞骸骨,遺中納言藤原內麻呂,就第許之。大同四年,薨,年七十九。子勝雄。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

■いまどきの女子に聞いてみた! ジブリサザエさんドラえもんなど以外で 日本人として最低限見ておくべきアニメは?
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51349294.html
勿論宇宙戦艦ヤマト......

奈良でシカに囲まれる外国人旅行
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http://blog.livedoor.jp/fairypot2/archives/967811.html

ヤス:五日性滅亡シンドローム 「それは世界最期の五日間」 完結
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/50720780.html

なんでスカスカしい!


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2008-08-27-水 鹽山砂嘴での礒に棲む千鳥君が御世をば八千代とぞ鳴く

[]腹が痛い... 腹が痛い...を含むブックマーク 腹が痛い...のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

喰当たりか...単なる水土不服
連日の写真はこちらに: http://picasaweb.google.com.tw/bst303e/2008

大日本史
 紀古佐美,大納言麻呂孫,正六位上宿奈麻呂子也。【公卿補任。】寶字末,敘從五位下,為丹後守。寶龜中,歷兵部、式部少輔、伊勢介、左少辨,進從五位上。會蝦夷反,殺紀廣純。古佐美為征東副使,從大使藤原繼繩討之。天應元年,為陸奧守,敘從四位下。延曆初,遷左兵衛督,兼但馬守,歷左中辨、式部大輔、中衛中將,拜參議,歷東宮大夫左、右大辮,累進正四位下。七年,為征東大將軍,兼大和守,征陸奧蝦夷。及辭見,敕上殿授節刀,賜書曰:「夫擇日拜將,良由綸言。推轂分言,專任將軍。如聞:『承前別將等,不慎軍令,匿闕猶多。』推其所由,弊在輕法。其副將軍有犯死罪者,禁身奏上。軍監以下,依法斬決。坂東安危,在此一舉。將軍勉旃。」因賜御被二領、綵帛三十匹、綿三百屯,令東海東山、坂東諸國步騎五萬餘,會多賀城,分道入賊地。八年,古佐美至衣川,按兵不進。四月,上書告狀。五月,敕曰:「省奏,知三月二十八日官軍渡河,置營三處,勢如鼎足。自爾以還,經三十餘日,未審何故,逗留費日,頓而不進,未見其利。夫兵貴拙速,未聞巧久。又六、七月,計應極熱。如今不入,恐失其時。已失其時,悔何所及。將軍應機進退,更無間然。但久留一處,朕之所怪。宜具其所由及海軍消息,附驛奏來。」時副使民部少輔佐伯葛城率軍進討,中途而卒。詔贈正五位下。古佐美又奏曰:「副將軍入間廣成、左中軍別將池田真枚,與前軍別將安倍猨島、墨繩等議,三軍齊進,渡河討賊。約期已畢,簡中後軍各二千人,濟河而進。賊帥夷阿氐流率三百許人逆戰。官軍勢銳,賊徒引遁。官軍且戰且燒,至巢伏村,將與前軍合。而前軍為賊所拒,不得進。會賊八百許人來戰,官軍少卻。別有四百許人,出自東山,絕官軍後,前後夾擊。官軍敗走,別將丈部善理,進士高田道成。會津壯麻呂、安宿戶吉足、大伴五百繼等戰死。凡燒賊巢村十四戶八百,收器械雜物如別錄。我兵戰死者二十五人,中矢二百四十五人,溺死一千三十六人,浮沒逃歸一千二百五十七人。別將出雲諸上、道島御楯等,引餘眾還。」六月敕曰:「省比來奏云:『膽澤之賊,總集河東。先征此地,後謀深入。然則軍監已上,率兵張其形勢,嚴其威容,前後相繼,可以薄伐。而兵寡將卑,因致敗績。』是則副將等計策之所失也。至于善理等戰亡,及士眾溺死者,惻怛之情,有切于懷。」古佐美又奏曰:「膽澤之地,賊奴奧區。方今大軍征討,剪除村邑。而餘黨伏竄,殺略人物。又子波和我,僻在深奧。臣等欲進致討,運糧有艱。從玉造塞至衣川營,行禮四日,輜重受納二日。從衣川至子波地,行程六日,輜重受納二日。然則從玉造塞至子波地,往還二十四日,其遇賊阻雨,不入程限。水陸兩道,用輜重二萬二千四百四十人,運補六千二百十五斛。征軍二萬七千四百七十人,一日之食,五百四十九斛。以此計之,一度所運,僅支十一日。臣等商量,指子波地,支度交闕。若分征兵徐ョ輜重,則軍士寡少不足征討。加以軍興以來,經涉春夏,軍旅輜重,皆悉疲弊,進而有危,持之無利。久屯賊地,運糧百里之外,非良策也。雖蠢爾小寇,且逋天誅,而水陸之田,不得耕種,既失農時,不滅何待。今日之計,莫若解軍節糧,擬支非常。軍士所食,日二千斛。【○按上文云,一日之食,五百四十九斛。而此云軍士所食日二千斛,蓋舉本軍成數乎。今不可考。】若上奏聽裁,恐更多糜費。故今月十日,以前解出之狀,牒知諸軍。臣等愚議,且奏且行。」敕曰:「省前後奏云:『賊集河東,抗拒官軍。先征此地,後圖深入。』者,今以不利深入,而欲解軍,則具奏事狀,待報而行之未晚也。一旦罷兵,不果進討,為謀如此,其理安在?灼知目將軍等憚賊之所為也。而巧飾浮詞,規避罪過,不忠之甚,莫大於斯。廣成、墨繩,久在賊地,素閑戰陣,故委以副將之任,佇其力戰之效。而安居營中,坐視成敗。差遣裨將,反致敗績。事君之道,豈可如此?夫師出無功,良將所恥。今喪軍費糧,為國家大害,閫外之寄,誰任其咎。」七月,古佐美等上書,偽告大捷。敕曰:「得今月十日奏偁:『所謂膽澤者,水陸萬頃,蝦虜所聚,大兵一臨,忽作荒墟,餘燼假息,危如朝露。至如軍船解纜,舳艫百里,天兵所加,前無強敵。海浦窟宅,無復人煙,山谷巢穴,確見鬼火。不勝慶快,飛驛上奏。』而撿先後奏狀,斬賊未滿百級,死傷殆三千。以是言之,何足慶快?夫大軍將還,兇賊攻後,非唯一度。而云:『大兵一臨,忽作荒墟。』量度事勢,有似虛飾。真枚、墨繩等,不親督兵,遣裨將於河東,軍敗而逃,溺死一千餘人,而云:『一時凌渡,且戰且焚,搜賊巢穴,還保本營。』是溺死之軍,舍而不論。唯征東副使多治比濱成等討賊略地,比他差勝。今曰:『天兵所加,前無強敵山谷巢穴,唯見鬼火。』浮詞夸言,良為過實。凡獻凱表者。應在平賊立功之後。今未究其窟穴,殲其種類,而馳驛稱慶,將軍獨無愧乎!」九月,古佐美等遂歸京師,上節刀。命大納言藤原繼繩、中納言藤原小障テ麻呂等,勘且問於太政官曹司。古佐美、廣成、真枚、墨繩等皆承伏。敕曰:「古佐美不究賊地,敗軍費糧,當據法窮治。顧嘗有勤勞,故一切不問。真枚、墨繩等,愚頑畏懦,進退失度,每後軍期。檢法,墨繩當斬,真枚當解官收冠。而墨繩久歷邊戍,黽勉奉事,故兔刑收官冠。真枚在日上港,救援溺兵,故解官不收冠。餘有小功者,量加賞賜。小罪者,置而不問。善理膽澤之役,官軍失利,奮而戰死,贈外從五位下。」頃之,古佐美進正四位上,【續日本紀。】兼但馬守,遷左衛門督。十三年,拜中納言且,超授正三位。尋兼式部卿。十五年,轉大納言。十六年,兼皇太子傅。未幾,薨,年六十五。遣從四位下百濟英孫等,就第宣詔,贈從二位。子廣濱、未成。廣濱參議正四位下。【公卿補任。○末成據類聚國史。】末成,幼而聰悟,博覽文籍。延曆中,調式部丞。時議許其廉舉,出為伊豫介。大同、弘仁間,歷出雲常陸大和越前守,所在以幹濟聞。至從四位下。天長二年,卒,年四十五,贈正四位上。【類聚國史。】
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萌え死にさせられる前に湯攻めにしてみた。
D


中川@やたナビ中川@やたナビ 2008/08/27 00:22 大陸出張お疲れ様でした。
なかなかの冒険だったご様子で、無事に帰れてよかったですね。
大陸帰りで腹痛は誰でも経験します。
三回ぐらい行けば、何食べても大丈夫な体になりますよ。

kuonkizunakuonkizuna 2008/08/28 14:23 どうも。今日は大分マシになった...はず
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2008-08-26-火 渡海の濱の真砂を數へつつ君が千歲の在數にせむ

[]海外出張中:台湾戻り 海外出張中:台湾戻りを含むブックマーク 海外出張中:台湾戻りのブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

■残念にも(?)無事に帰りました。
 廈門空港で一夜過ごした、しかも同じことを考えるやつは他に二名ありました。。
 明けたら、バスで輪渡行き、そして金門へ行くためにまた輪渡より東渡へ行って、そこがまた二転三転。
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 取りあえず東渡の国際港を立つ、金門を経由して飛行機台湾に戻りました。
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 ひとまつ実家で休んで、明日が実験室戻る予定です。

大日本史
 藤原小障テ麻呂,中衛大將房前孫,從五位下馬養子也。【公卿補任。】寶字末,授從五位下,為伊勢守。景雲中,歷式部少輔、安藝守。寶龜中,除中衛少將,改右衛士督,歷兼美濃上野出雲常陸守,累進從四位上。十年,拜參議。十一年,陸奧蝦夷反,授正四位下,為持節征東大使。奏曰:「蠢玆蝦夷,寔繁有徒。或巧言連謀,或窺隙肆毒。是以遣二千兵,經略鷲座、楯座、楯石澤、大菅屋、柳澤等五道,刊木塞徑,浚溝設險,以斷逆賊首鼠之要害。」敕曰:「如聞出羽大室塞等,亦是賊之要害也。宜命將軍及國司,據險置戍,防禦衝突。」天應元年,兼陸奧按察使,加兵部卿。桓武即位,小障テ麻呂上狀言賊情。敕曰:「得奏狀,具知消息。彼夷俘之為性,蜂屯蟻集。攻則犇逃山藪,緩則侵略城塞。而伊佐西古、諸絞、八十島、乙代等,賊中之首,一以當千。竄跡山野,窺機伺隙。畏我軍威,未敢縱毒。今將軍等未斬一級,先解軍士。事已行訖,不可復追。但見先後奏狀,賊眾四千餘人,所斬首級僅七十餘,則遺眾猶多,何遽請凱旋?縱有舊例,朕不取焉。宜差副使內藏全成、多犬養等一人,乘驛入京。先奏軍中委曲,其餘待後處分。」是時征東副使大伴益立逗遛不進,乃命小障テ麻呂,進軍擊蝦夷。至則悉復諸塞,就授民部卿。賊平歸京師,以功敘正三位。延曆初,再兼陸奧按察使。未幾,改兼左京大夫,任中納言,尋轉大納言。【續日本紀。】十三年,薨,年六十二,贈從二位。【公卿補任。】子葛野麻呂,自有傳。道雄,至從四位上參議。【公卿補任尊卑分脈。】
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2008-08-25-月 我が君は千代に八千代に細石の巌と成りて苔の生す迄

[]海外出張中:廈門再び(0825) 海外出張中:廈門再び(0825)を含むブックマーク 海外出張中:廈門再び(0825)のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star


 とりあえず廈門空港に戻りました。
 報告も済みましたので、今日普通に他人の報告を聞くことですごすのでした。
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 山東より廈門へいく飛行機はPM8:20にたつなので、7:20以前山東の済南空港に到着すれれば大丈夫だと思いますが、万が一滯塞に遭ったらやばいので、PM4:00より空港バスを乗るように山東大学を後にした。と言っても、空港バスバス停山東大学とかなり離れているようです。「近いですよ、車で20分かな?」という、大陸人の神経はやっぱり台湾に慣れた者の神経と明らかに異なるものでした。
 振り替えてみれば、バス停まではタクシーで行ったのですが、多分運ちゃんに騙された。というか、チャックを忘れたしまった。多分人民幣9円の車料代だけど、50円を出すと2円だけ返されたので、29円になります。それは高かったんですね、大陸では。結局、4時のバスに間に合わなかったのですが、そこで空港行きのタクシーに乗便し、30円で行けたのでした。合わせてほぼ60円で、直ちにタクシー空港までより半分の値段だからどうでもいいとするか......
 が、タクシーだけあって、遠いのにかなり早かったんです。なぜなら5時半頃既に空港到着したですから。そこでまずチェックインして休み飛行機の発機を待つことにしました。が、飛行機は少々遅刻したのです。ちなみに廈門直行ではなく、一段福州とまりして廈門に到着したのです。そして今は廈門で寝ず朝を待つとの予定です。うまくいけるように......
 あと、運がよく飛行機のシートはいつも翼の傍にある。変形機構をみるのも一興であります。
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2008/08/24

水動力學

2008-08-24-日 行く年の惜しくも有る哉真澄鏡見る影さへにくれぬと思へば

[]海外出張中:会場到着(0823) 海外出張中:会場到着(0823)を含むブックマーク 海外出張中:会場到着(0823)のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star


午前4時50分起きて、廈門のホテルを後にして、廈門空港山東行きの飛行機に乗りました。
山東空港に到着したとき、タクシーで行くしかないと思ったが、意外にも山東大学から迎えに来た教授が待ってくれました、そこで専車で山東大学まで来ました。半端なく遠い...
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昼食はまた昨日みたいな高いもの......幸にも今度は山東大学の奢りでした。
ちなみにいうと、昨日の夜食の食代料(八人分)は、廈門人の一ヶ月の給料分だそうです。
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私の報告は、カンファレンス一場のB SECTIONの最後です。
どうやら大陸カンファレンス台湾より活絡で、質問を出す人も半端じゃなかったんです。
会後、ウチの研究について、「いつ売る?」と聞いてくれた人が少なくありません。
特許申請中と答えるしかないんですね。但し、先生が知ったら大喜びだそう、たぶん。
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どころで、登録して参加料を払ったら、身元には200人民幣しかありません...
台湾に帰るにはたりうるでしょうか、と心配している今日のこの頃。

さっき、旅行社のお知らせを貰って、
明日の晩で廈門に戻り、明後日の船で金門行きという予定だそうです。
但し、面倒なことに、明晩はホテルなしだそうです。そりゃヤバイ......
とりあえず、行程をメモする。
  • 08/24  山東  →(20:20飛行機 MF855)  →廈門(23:35)
  • 08/25  廈門  →(09:30船)          →金門
  • 08/25  金門  →(12:00飛行機)        →松山
となっております。
ちなみに、山東大学から山東空港バスで40分掛かりそうで、玉泉森信大酒店前にバス停があるだそうです。
明日のCONFERENCは18時終わりそうで何とかなるかな。たぶん。
さて、明晩はどう過ごすべきなのか......
  1. 安い旅館を探す(見つかるかな)
  2. 高い旅館で一泊(一番安定だと思います)
  3. 廈門空港で寝ず(一番やりたいのかも...)
  4. 廈門港で寝ず(大丈夫かな......)

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2008-08-23-土 昨日と云ひ今日と暮らして飛鳥川流れて速き月日なりけり

[]海外出張中:意外だらけ旅路(0822) 海外出張中:意外だらけ旅路(0822)を含むブックマーク 海外出張中:意外だらけ旅路(0822)のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

カンファレンスの為に海外出張致します
予定では、今朝の午前5時、実験室より出て、6時頃桃園中正空港に到着ということです。
そこまではほぼ予定とおりでしたが、そのあとは混乱の極まりと言っても差支ない状況でした。
当初の予定は、
基隆→桃園→香港→済南→カンファレンス会場
であったはずなのですが、台風のせいで香港空港が関閉寸前で予定の香港→済南便も中止する事になりました。例え桃園→香港に乗っても、香港で身を動かないのなら意味がありません。
そこで、急に旅行社と連絡をしてみたが、付けませんでした、故に中正空港で待機するまま、旅行社との連絡を試し続けていました。九時ころ、やっとその旅行社と連絡を付きました。
指導教官が「順風満帆であるように」と祝言を下さったのですが、どう返事すればいいでしょうか
  • 文字通りの意味じゃなければ、順風どころか寧ろ逆風でしょう。
  • 文字通りの意味であれば、確かに順風と言えなくもないが、その風は台風でしょう。
香港は無理なら、他の城市から済南への転乗りしか仕方ないので、色々考案をやってみました。
確かに両岸直航便もありますが、直接済南へ行けるわけないし、また高すぎます。
というわけで、金門を中継として、船で廈門へ行くという小三通の案がでました。
ただし、廈門から済南までの便は既に間に合わなく、今日参加者登録は無理です。
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そこで、予定を
桃園→松山→金門→廈門→済南→カンファレンス会場
に変更しました。
が、ようやく台北松山から出た飛行機が金門に辿った時、
金門から廈門への船も台風ゆえ中止しました。
仕方なく廈門ではなく泉州へ、そして泉州からバスで廈門まで着ました。
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取りあえず廈門で一泊して、明日が最初便済南へ行く事になります。

どころで、泉州景色は、ほぼ二十年前の台湾イメージそのものです。
但し、廈門の様子が複雑で十年前の台湾から今の台湾までのイメージが混在しています。
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ちなみに、ウチの大学メンバー以外に、
同じく台風のせいで予定が壊れた台湾大学メンバーと共に、
八人のクループが形成しました。私以外全員教授なので、教授団だと呼ばわれます。
全員教授だけあって、物価の安い大陸にいるにも拘らず、
晩御飯は120人民幣という酷い値段のヤツです......

人民幣の引き換わりもかなり波乱がありました。
教授が美金だけもって、どこにも換えしてくれなかったんです。
教授が以上の事故で、人民幣以前に台幣さえ持っていなかった。
金門の水頭碼頭に到着して、人民幣引換えの事務室があっても、そこにATMがありませんでした。
しかも、最近いのATMは酒廠辺りに在って、とてもいけそうになかったんです。





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2008-08-22-金 雪降りて年の暮ぬる時にこそ遂に紅葉ぬ松も見えけれ

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というわけで、08/22 AM 5:00より実験実をたつ、AM 8:00の飛行機を乗り、山東カンファレンス会場へ向かう予定になります。
もし飛行機が落ちたら色々とよろしくお願い致します。(おい


日本巫女史
 古代人は神意を伺ふ方法を幾種類が發明し工夫して所持してゐたが、其の中で祝詞に最も關係の深い物を舉げれば、託宣である。勿論、此託宣の中には、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれてゐるが、託宣は直ちに神聲であり、神語である。『欽明紀』十六年春二月條に「天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰。」云云と有るのは、祝者──即ち巫女﹝祝はハフリと訓むとは後章に述べる。﹞が神語を託宣した者である。『萬葉集』卷十九に「注江に、齋イツく祝ハフリが、神語カムコトと、行くとも來とも、船は早けむ。﹝4243﹞」と有るのや、同集卷四の長歌の一節は「天地の、神辭寄せて、敷妙の、衣手交へて、自妻と、償ワめる今宵。﹝0546﹞」等を始として、書紀、萬葉に多く散見する處である。
 而して、此の神語なる物は、如何なる形式で表現されるかと云ふに、憑神カカルカミに依つて、或は散文的の普通言語を以てし、或は歌謠的に律語を以てする物と有るが、概して言へば、太古に溯る程素朴で單純であるのに反し、時代の降る程枕辭を冠し、對句を用ゐる等、頗る典雅な物となる。『肥前風土記』佐嘉郡條に、
 郡西有川,名曰佐嘉川。﹝中略。﹞山川上荒神,往來之人,半生半殺。於茲,縣主等祖大荒田,占問。于時,有土蜘蛛大山田女、狹山田女,﹝中山曰、巫女也。﹞二女子云:「取下田村之土,作人形、馬形,祭祝此神,必在應和。」大荒田,即隨其辭祭此神,神敵ウチテ此祭,遂應和之。﹝云云。﹞
 と有るのは、神語の最も簡古な物で、前者の例と見るべく、『播磨風土記逸文に、
 息長帶日女命,【○神功皇后。】欲平新羅國,下坐之時,禱於眾神。爾時,國堅大神之子爾保都比賣命,著カカリ國造石坂比賣命,教曰:「﹝中略。﹞比比良木八尋桙根底不附國ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ、越賣眉引國ヲトメノマヨキノクニ、玉匣賀賀益國タマクシゲカガヤククニ、苦尻有寶白衾新羅國コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ矣,以丹浪而將平賜伏。」如此教賜。﹝云云。﹞
 と有るのは、やや技巧の加つた物で、後者の例として見る事が出來る。更に『神功紀』に載せてある神后の託宣に至つては、﹝中山曰、此の全文は後章に引用する、參照を望む。﹞對句と疊句を用ゐ、高雅にして典麗を極め、全く歌謠體の律語を以て表現されてゐる。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/hujyosi.htm

大日本史
 藤原小障テ麻呂,中衛大將房前孫,從五位下馬養子也。【公卿補任。】寶字末,授從五位下,為伊勢守。景雲中,歷式部少輔、安藝守。寶龜中,除中衛少將,改右衛士督,歷兼美濃上野出雲常陸守,累進從四位上。十年,拜參議。十一年,陸奧蝦夷反,授正四位下,為持節征東大使。奏曰:「蠢玆蝦夷,寔繁有徒。或巧言連謀,或窺隙肆毒。是以遣二千兵,經略鷲座、楯座、楯石澤、大菅屋、柳澤等五道,刊木塞徑,浚溝設險,以斷逆賊首鼠之要害。」敕曰:「如聞出羽大室塞等,亦是賊之要害也。宜命將軍及國司,據險置戍,防禦衝突。」天應元年,兼陸奧按察使,加兵部卿。桓武即位,小障テ麻呂上狀言賊情。敕曰:「得奏狀,具知消息。彼夷俘之為性,蜂屯蟻集。攻則犇逃山藪,緩則侵略城塞。而伊佐西古、諸絞、八十島、乙代等,賊中之首,一以當千。竄跡山野,窺機伺隙。畏我軍威,未敢縱毒。今將軍等未斬一級,先解軍士。事已行訖,不可復追。但見先後奏狀,賊眾四千餘人,所斬首級僅七十餘,則遺眾猶多,何遽請凱旋?縱有舊例,朕不取焉。宜差副使內藏全成、多犬養等一人,乘驛入京。先奏軍中委曲,其餘待後處分。」是時征東副使大伴益立逗遛不進,乃命小障テ麻呂,進軍擊蝦夷。至則悉復諸塞,就授民部卿。賊平歸京師,以功敘正三位。延曆初,再兼陸奧按察使。未幾,改兼左京大夫,任中納言,尋轉大納言。【續日本紀。】十三年,薨,年六十二,贈從二位。【公卿補任。】子葛野麻呂,自有傳。道雄,至從四位上參議。【公卿補任尊卑分脈。】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm



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2008-08-21-木 新まの年の終りに成る毎に雪も我が身もふり増りつつ

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日本巫女史
 更に詳言すれば、祝詞なる物は、神が人に對して、積極的に、此れ此れの事をして祭れとか、又は消極的に、此れ此れの事はする勿と誨へた事が、此れの起源と成つてゐるのである。而して此の意義を理解し易い樣、祝詞の中から例證を覔めて具體的に言へば、前者の例としては『遷卻崇神祭』の祝詞に、
  •  進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打斷る物と太刀、馳せ出づる物と御馬。
其他種種の幣帛を鋤メ出の如く置き足らはして祭つたのが其れであつて、後者の例としては『道饗祭』の祝詞に、
  •  根國底國より麤び疎び來む物に、相率り相口會する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り・日の守りに、守り奉り齋ひ奉れ。
と有るのが其れである。從つて祝詞は、古い物に成る程宣命體と成つてゐるが、然も其の宣命の一段と古い處に溯ると、託宣と成つてゐるのである。而して其の託宣は概して神の憑代ヨリシロである巫女の口を藉りて發せられるのである。

大日本史
 大伴益立,初授從六位上。寶字中,鎮守將軍惠美朝獵造桃生城。益立為軍監,有功,進從五位下。【○本書曰,嘉再征之勞進位。而事實無所見,蓋脫文也。】軍曹韓袁哲以先登功,進三階。既而益立為陸奧鎮守副將軍,兼陸奧介。景雲中,褒功進正五位上,歷兵部式部大輔。寶龜中,為肥後守,改太宰少貳。六年,為遣唐副使。明年八月,浮海,風惡不能進,還至博多,大使佐伯今毛人還京師。益立留府待期,時人善之。然竟否行。頃之,歷權左中辨、左右兵衛督。十一年,為征東副使,兼陸奧守。臨發,敘從四位下,敕曰:「得將軍等五月八日奏云:『且備兵糧,且伺機要,方以今月下旬,進入國府,然後侯機乘變,龔行天誅。』者,既經二月。計日准程,佇待獻俘。夫出軍討賊,國之大事。進退動靜,宜陸續奏聞。何經數旬,絕無消息。宜告委曲,如書不盡意。差軍監已下堪辯者一人,馳驛奏上。」或譛益立曰:「益立至君,數僽征期,逗遛不進,空費軍糧,久彌日月。」因遣按察使藤原小障テ麻呂征之。明年,賊平,詔讓益立畏懦,削其本位。延曆中,為兵部大輔。【續日本紀。○或譛益立,據續日本後紀。】子野繼,仁明朝,為越後大掾。承和中,上書訴父冤。詔復本位。【續日本後紀。】
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

ギョーザ中毒事件に関わった中共食品監督局長が自殺
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1155474.html

台湾のお店の名前が親日過ぎ
http://portal.nifty.com/2006/11/22/c/
それは痛い...