2007/12/08

中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃

2007-12-08-土 斯くばかり惜しと思ふ夜を徒に寢て明かすらむ人さへぞ憂き

[]クモ クモを含むブックマーク クモのブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

ヤマト
http://www.wretch.cc/blog/u466164&article_id=2954002
第三艦橋煙突ミサイルも主砲も見えないぞ?

大日本史
後宇多天皇
 掄子,中務卿宗尊親王長女也。【増鏡。皇胤紹運録、尊卑分脈並為少女。】初侍龜山法皇,無寵。及法皇徙龜山殿,留居禪林寺殿。源有房宿衛,與之姦生子。【増鏡。】後帝亦幸之,生崇明門院。【皇胤紹運録。○歷代皇紀為永嘉門院所生。今據増鏡、永嘉門院無子,養崇明門院為子,故今從本書説。】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

■『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃』
http://piza.2ch.net/log2/book/kako/952/952481590.html
http://blogs.yahoo.co.jp/rrrdx928/archive/2005/05/08
足利義鳥って将軍なんで聞いたこと無いのでサーチしてみると、やっぱりみんなソースが同じだな...
意外に、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の抜萃』を電子化したものが多数存在している模様。


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2007-12-07-金 何時はとは時は分ねど秋の夜ぞ物思ふ事の限りなりける

[]やれやれ やれやれを含むブックマーク やれやれのブックマークコメント 編集CommentsAdd Star


大日本史
後宇多天皇
 源基子,内大臣具守女也。祖父太政大臣基具養為子。【歴代皇紀女院小傳、後宮略傳、尊卑分脈。】初侍新陽明門院,稱東御方。得幸,【増鏡。】生後二條帝。及後二條帝崩,出家為尼,法名清浄法。延慶元年十一月,敘從三位。十二月,準三宮,【歴代皇紀女院小傳、後宮略傳。】進號西華門院。【院號定部類記引藤原實躬記、貴女抄、女院小傳、後宮略傳。】正平十年八月,薨。年八十七。【園太暦。】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

源融
ここで注目したいのは「時康親王光孝天皇)擁立」である。藤原基経は陽成天皇譲位後の帝に時康親王を押した。これに融が反対したのである。「大鏡」には次のようなやりとりがあったとされている。
融「近き皇胤をたずねば、融らも侍るは」
基経「皇胤なれど、姓賜ひてただ人にて仕へて、位につきたるためしやある」
つまり、臣籍に下りながら皇位に就いた例はない、というのだ。これには融も反論できず、ひきさがらざるをえなかった。ところが光孝天皇の没後、基経がかつぎだしたのは光孝天皇の息・源定省(さだみ)であった。定省は即位して宇多天皇となる。融には「先例がない」などと言っておきながら、わずか3年後にこのとおりである。このことはのちに陽成上皇も「当代は家人にはあらずや」と怒りをあらわにしている。しかし、融はこのとき何の反対もしなかったようだ。融の心中は如何・・・
このとき融が天皇の位を望んでいたとの考えもありうるが、私はむしろ藤原氏の専横への反感から出た発言ではあっても、積極的に皇位を望む程ではなかったのではないかという気がする。融は、少なくとも政治的野心の強い人ではなかったと思う。それは、融が、後に藤原道長を苦しめた藤原顕光のような激しい怨霊となった形跡がないからである。後に述べる「今昔物語」の話にしても、怨霊という感じではないように思う。融は文化的に満たされることで政治的な憂さを晴らしていた、もしくはさらに一歩進んで政治的な価値よりも文化的価値を重視した人だったのかもしれない。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rokujoh/rireki.html


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2007-12-06-木 獨寢る床は草葉に有らねども秋來る宵は露けかりけり

[]到着 到着を含むブックマーク 到着のブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

■そしてまた、補給物資

思うことに、マクロスの最後は鈴明美がアイドルからスターへの進化に対して、
マクロスゼロのエンドは、サラが巫女から姫神への登極とも言えよう。

大日本史
後宇多天皇
 典侍藤原忠子,參議忠繼女也。【歴代皇紀、貴女抄、女院小傳、後宮略傳。○典侍據増鏡。】內大臣藤原師繼養為子。【神皇正統記。】入宮,為典侍,稱中納言典侍。【増鏡。】生後醍醐帝、承覺法親王、性圓法親王、【皇胤紹運録。】達智門院。【増鏡、女院小傳。】龜山帝召幸之,徙居禪林寺殿。【増鏡。】永仁六年七月,敘從三位,【女院小傳、尊卑分脈。○按後宮略傳為五年事,蓋誤。】正安三年七月,準三宮。【女院記、女院小傳。】嘉元元年九月,出家為尼,法名蓮華智。【女院小傳、尊卑分脈。】文保二年四月,進號談天門院。【歴代皇紀、貴女抄。】元應元年十一月,薨,【公卿補任、歴代皇紀、皇代記、増鏡。】年五十二。【女院記、女院小傳、後宮略傳。】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

■上杉謙信
http://littleprincess.sakura.ne.jp/pukiwiki/index.php?%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1


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2007-12-05-水 物毎に秋ぞ悲しき紅葉つつ移ろひ行くを限りと思へば

[]だるい だるいを含むブックマーク だるいのブックマークコメント 編集CommentsAdd Star

■アップされました。
http://www.ylib.com/search/ShowBook.asp?BookNo=J0213
http://www.ylib.com/search/int_show.asp?BookNo=J0213
この間翻訳した漫画は間もなく発売されそうです。本当は作者のセンスには余りも合わないんですが...

大日本史
後宇多天皇
 後宇多皇后,諱姈子。【○歴代皇紀姈作姾。】後深草帝長女也。母東三條院。文永八年正月,為内親王。【女院小傳。】弘長八年八月,立為皇后。【歴代皇紀。】後無子,為後二條帝準母。【皇胤紹運録、女院小傳、園太暦文和元年。】及帝禪位,退居後深草帝宮。【増鏡。】正應四年八月,進號曰遊義門院。【貴女抄、諡號雜記。】永仁初,龜山法皇密通之,徙居萬里小路殿。【○參取増鏡、歴代皇紀女院小傳。】後居嵯峨今林。【増鏡。】徳治二年七月,崩,【園太暦文和元年。】年三十八。【歴代皇紀女院記、女院小傳。】后有殊寵顓房,及崩,帝哀慕不已,遂薙髪,屏去嬪御,而持長齋,建法華堂於今林。藏遺骨曰:「修佛事,毎忌日必幸焉。」以后遺髪,手繡梵字,又一字三禮,寫法華經於遺書紙背,慶之攝取院。【増鏡。】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm

二階堂沙織
http://www.shion-oh.com/character/saori.html


ふつうふつう 2007/12/11 17:29 発売おめでとうござます。あの人の本懐は江戸町人文化とか比較的近代にあるみたいで浮世絵の解説なんかで出てきた時は面白いんですけどね。今じゃほとんどTVタレントとして認知されてますが。
市川崑が演出した新撰組の漫画映画(アニメじゃなく文字通り。ローテクなミニパトみたいの)がかなり面白かったです。そちらで入手できる物か判りませんが。

kuonkizunakuonkizuna 2007/12/11 21:24 ふつう様
 お久しぶりです。本当は寡識で黒鉄氏の作品を余り知らなかったんです。私より黒鉄氏の作品に馴染んだ人に翻訳して欲しいと言いましたのですが、成り行きで翻訳させていただいたことになりました。漫画映画って私の世代より一昔前のものでしたね、確かに以前はアニメと漫画映画の違うについてを述べたコラムを見た事があります。新選組関連の作品は何となく『人斬り』に興味があって何時かまとめで見たいんですが。

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