2008-04-08-火 神無月時雨も未だ降ら無くにかねて移ろふ神奈備社
■[趣味雑談]ファンタジーなる国、ニッポン 編集
■ファンタジーだ。絶対にファンタジー世界だよ、コレ…。http://d.hatena.ne.jp/USO9000/20080407#1207572948
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■大日本史
膳大丘,勝寶四年,隨遣唐使如唐。歸,為大學助教。景雲中上言:「臣前如唐,問先聖之遺風,覽膠庠之餘烈。國子監有兩門,題曰:『文宣王廟。』山有國子學生程賢,語臣曰:『今主上大崇儒範,追尊為王。鳳恕y之徴,于今至矣。』皇朝准舊典,猶稱前號,誠恐乖崇恕y之情,失致敬之理。大丘庸闇,聞斯行諸,敢陳管見,以請明斷。」於是敕稱孔子為文宣玉。寶亀中,至外從五位下,為大學博士,兼豐後介。【續日本紀。】
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■幕末古写真ジェネレーター -写真を江戸〜明治期の古写真ぽくします-
http://labs.wanokoto.jp/olds
なるほど、面白かった。
■MEMO
http://www2.mech.kyoto-u.ac.jp/mech/
http://www.mi.t.kyoto-u.ac.jp/ja
http://mtfm.me.kyoto-u.ac.jp/home/index.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112217311
2008-04-07-月 霧立ちて雁ぞ鳴くなる片岡の朝原は紅葉しぬらむ
■[趣味雑談]その狂気。凝縮した魂の塊。 編集
■大日本史
大伴繼人。繼人,寶龜六年,為遣唐判官。八年,如唐。九年,還,惡風破船,舳艫兩斷。繼人與麻前遣唐大使藤原清河女喜娘等四十一人,乘其舳,著肥後天草郡。主神津守國麻呂與遣唐判官等五十六人,乘艫著薩摩甑島郡。繼人奏言:「去年六月,四船同浮海。七月,泊唐國楊州海稜縣。八月,至揚州大都督府。十月,發途。今年正月,至長安。唐主遣內使趙寶英迎接,安置外館。三月,召對奏事。四月,辭見。其使人楊光耀監送至楊州發遣。乃領留學生,發長安。又差趙寶英,齎國信來,以結鄰好。六月至,維楊。九月,發楊子江口,至蘇州常熟縣候風。十一月五日,得便風。第一、第二船同發。八月初,更風浪破棚良,潮水滿船,蓋板舉流,副使小野石根等三十八人、唐使趙寶英等十五人,同時溺死,唯臣一人潛行,著舳檻角,生理絕路。十一日五更,檣倒船底,斷為兩段.舳艫分裂。四十餘人,累居方丈之舳。舉舳欲沒,截纜抱柁,得少浮出。裸身懸坐,水穀不入口,已經六日。十三日亥時,漂著肥後天草郡西仲島。臣之再生,叡造所救,不任歡幸之至,謹以聞。」入京師,進從五位下,為能登守,改伯耆守。延暦中,補左少辨。【續日本紀。】皇太子以佐伯今毛人為參議,中納言藤原種繼奏罷之。大子恚請殺種繼,不得。【水鏡。】帝幸平城,太子留守,使繼人及大伴竹良殺種繼。帝怒,廢太子。繼人竹良以首惡誅。【續日本紀。】事詳種繼傳。
繼人子國通,坐父事流佐渡。有文才,國宰郡吏,就問所疑。國中文案,皆出其手。遇赦入京師。弘仁中,歷陸奧權介、伊勢介、宮內民部少輔。十四年,授從四位下,補右中辨,拜參議,兼右大辨。【公卿補任。】以觸諱,改姓伴宿禰。【日本紀略。】天長中,歴兼勘解由長官、陸奧出羽按察使、相模武葳守,至從四位上。五年,卒,年六十一。【公卿補任。】子善男,自有傳。
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■Dies_irae_-Also_sprach_Zarathustra-
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http://blog.cyesuta.org/2007/12/dies_irae_071224.html
プレッシャー消解にDies iraeの紹介ページを作る事に。そこでこういう私設WIKIをも発見。
■真紅のフィギュアがついに
http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51379320.html
水銀燈しか見てませんが...
2008-04-06-日 紅葉せぬ常磐山は吹く風の音にや秋を聞渡るらむ
■[趣味雑談]夢 編集
シャワーしたら暴睡、しかもハッキリしないが実験室に実験している夢を見たそうで、突然に目覚めたら何故か寮にいるのを小一時間。ともに激しい疲勞に襲われた今日のこの頃。
■大日本史
大伴古麻呂,勝寶元年,為左少辨。二年,為遣唐副使。六年,歸自唐,奏曰:「天寶十二載元會,唐主居含元殿,受賀。是日,以臣等列西畔第二吐蕃下,新羅使列東畔第一大食國上。臣爭曰:『新羅朝貢于日本久矣,而今反列東畔上,義所不當。』於是,其將軍吳懷實見臣顏色,即引新羅使,就吐蕃下,臣等列大食國上。」是年,轉左大辨,至正四位下。寶字初,兼陸奧鎮守將軍按察使。橘奈良麻謀廢立,古麻呂黨之,事露鞫問杖死。【續日本紀。】
初古麻呂等如唐日,有肥前松浦郡人川部酒麻呂,為第四船柁師。及歸,船尾失火,煙焰覆艫而非,眾皆惶遽。酒麻呂迴柁轉舟,手爛不動,因撲滅之。以功授十階,補本郡員外主帳。寶龜中,進外從五位下。【續日本紀。】古麻呂子繼人。【公卿補任。】
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2008-04-05-土 草も木も色變れども棉津海の浪花にぞ秋無かりける
■[趣味雑談]幕を上げる物語は、永遠と言ふ名のインタールード 編集
■大日本史
藤原清河,中大將房前第四子也。天平中,敘從五位下,為中務少輔,遷大養恕y守,進從四位下。勝寶元年,拜參議。二年,為遣唐大使。四年,授節刀赴唐,敘正四位下。【続日本紀。】至難波,帝遣高麗福信,犒以酒肉,賜御製歌。【萬葉集。】至長安,見玄宗。玄宗曰:「聞彼國有賢君。今観使者,趍揖有異。」乃號日本,為禮儀君子國。命阿倍仲麻呂。導清河等,視府庫及三教殿。又圖清河及副使吉備真備貌,納於蕃藏中。及歸,玄宗賜詩曰:「日下非殊俗,天中嘉會朝,念余懷義遠,矜爾畏途遙,漲海?秋月,歸帆駛夕颷,因驚彼君子,王化遠昭昭。」特差鴻臚卿蔣挑捥,送至楊州,使魏方進供給。【高僧傳要文抄。】是時,阿倍仲麻呂請歸國,【古今集抄。】乃與仲麻呂同船而發,逢風漂泊安南,【日本紀略延暦二十二年。】至驩州,所帥多為土人所害,清河僅免。復歸長安,遂留仕唐。【続日本紀。】改名河清,【日本紀略延暦二十二年。】為特進祕書堅。寶字中,渤海使還國,以高元度為迎入唐大使使,與之同發。賜書渤海王大欽茂,護送元度等達唐。大欽茂遣其輔國大將軍高南申來聘,上牒曰:「迎藤原河清使等九十九人。方今唐朝,祿山先逆命,思明後作亂,内外騷擾,未有平殄。欲導使者,恐被殘害。欲且還之,慮違聖意,因令正使高元度等十一人往唐迎河清,判官全成等歸天朝。故差此使,奉報委取。并獻河清表。」詔報曰:「遣唐大使藤原河清,久不來歸,朕所鬱念也。而王遣南申,齎河清表入朝。王之欵誠,實有嘉焉。」矜河清久在異朝,遙授文部卿。【続日本紀。】元度至唐,以亂故,不得朝見。久之,肅宗令內使宣敕曰:「特進秘書監藤原河清,今依使奏,欲遣歸國,唯恐殘賊未平,道路多難。元度宜取南路,先歸復命。」【日本紀略所載敕文,與此異,未知何據。】於是,元度留錄事羽栗翔等而還,河清遂不得歸。朝廷又遙授常陸守。八年,陞從三位。寶龜中,新羅使再獻河清書。七年,命遣唐使,賜河清書曰:「汝奉使絶域,久經年序,忠誠遠著,消息有聞。故今因聘使迎之。賜絁一百匹、細布一百端、砂金大一百兩。宜能努力,與使共歸。相見非賒,指不多及。」九年,遣唐使歸,河清女喜娘從之。暴風船破,喜娘與判官大伴繼人等,同漂著肥後天草郡。河清遂沒于唐。訃聞,贈從二位。【続日本紀。】
延暦中,家人請捨家為寺,號齊恩院。【類聚國史。】二十二年,詔曰:「入唐大使贈從二位藤原朝臣河清,銜命先朝,修聘唐國。既而歸舳迷津漂蕩,物故他鄉。可贈正二位。」【日本紀略。】承和三年,因命遣唐使,贈河清從一品,詔曰:「故入唐大使贈正二位藤原朝臣河清,可贈從一品。昔膺帝簡,遠效皇華,不利歸帆,還苦漂梗,終在殊域,俄從閱川,睠彼云亡。良深嗟悼,特加異代之寵,以申追遠之思。」【続日本後紀。】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dainihon.htm
■世中、ありがたいサイトが溢れている
http://d.hatena.ne.jp/USO9000/20080405#1207321862
ちょっと三本足のやたがらすには見えないんですが...
■王仁三郎オンライン文庫(仮称) ~出口王仁三郎の霊界物語がネットで読める!
http://rm.onisavulo.jp/index.html
http://www1.kcn.ne.jp/~ganes-z/image/yatagarasu.html
Munyu 2008/04/05 23:03 市の公式サイトによると、八咫烏ではなくて金鵄のようですね。
http://www.city.kashihara.nara.jp/reiki/reiki_honbun/ak40600111.html
Y.U. 2008/04/05 23:12 >>踆烏(三本足のカラス)
確か《楚辞.天問》の中に、太陽の中にカラスがあるって記述が出てきたな。
それで後の《淮南子.精神》に明確的な話が記載された訳で。
漢代の画像石や画像磚芸術にもよく見かける主題であった。
kuonkizuna 2008/04/06 00:29 http://www.city.kashihara.nara.jp/reiki/reiki_honbun/ak40600111.html
http://www.city.kashihara.nara.jp/gaiyo/gaiyou.html
>全形は「カシハラ市」の頭文字「カ」の字を表象する。(「カ」)上部の羽型は雄飛を表わし、鵄を表徴し、下部の円型は融和、平和を、平和に発展する古代文化の都を表わしている。
公式サイトでは違う解釈がしてますが...こっちらでは「烏」ではなく「鵄」。『日本書紀』にはそれぞれ神武帝の道案内をしていたのですが、違う物です。(これを書き終わると初めてMunyuさんのコメントを見た、蛇足になっちゃった...)
なお、三本足の烏は中日以外もあったような気がします。うろ覚えですが...
Munyu 2008/04/06 00:56 吉林省集安の長川1号墳や北朝鮮南浦の薬水里古墳など、高句麗の壁画古墳には五世紀に入ると、太陽に三本足の烏や、月に蛙か兎が描かれた物が出てきますね。
八咫烏も金鵄も、太陽神天照大神の加護を磐余彦尊が受けていたことを示している、とする説が割合有力なようですが、元々ひとつの話の異伝が両方収録されたわけでもなさそうなので、別々の伝承があったんでしょうね。
鵄については、トビ→鳥見(トミ)の地名に縁故を持つ、物部氏族の関与を想定できると思います。
Y.U. 2008/04/06 01:28 >>なお、三本足の烏は中日以外もあったような気がします。うろ覚えですが...
李錦山氏の〈金烏圖像及其神話〉と言う文章によると、エジプトのホルス以外、ペルシャや一部のインディアン人の太陽神も鳥型だったが、「三本足」の記述は中国の太陽神話にしかいなかった。
いや、よく分からないけど。間違ったらゴメンなさい。
kuonkizuna 2008/04/06 23:19 ネット上、ホルスには三本足の説があったという話もあったのですが、どうやら噂だけだそうです。確認した物は皆二本足のものだそうです。
結局、三本足の烏は、中国・韓国・日本のみと思う方が妥当的のではないか。どちらも一貫にしたルートで、陰陽思想を受け入れる国がポイントか。
八咫烏と金鵄には、幾つの元神話による融合と区別があると思いますが...どころで金鵄の話は日本書紀に見えませんね。普通、古事記よりも日本書紀の方が神話の統合を一貫にしたい姿勢(本文の場合。一書は別として書かれたのですが。)がもってます。そこまで相似した話を敢えて近いところで並記するのは何の理由でも有るでしょう。